2019年05月26日

モダニズム的な「主観主義」の終焉、と「ポストモダン」。


モダニズム的な芸術観では、個性は「何かに縛られてはならぬ」。「個人の直感」こそ、尊いもの。という妄念がある。

しかし、モダニズム的な文脈においてさえ、それは間違っている。

なぜなら、モダニズムとは、「個人の主観」と「進化論」の二枚重ねであり、「進化論」とは、「個性の発露において、新しいものを創造すること」。だが、「新しい」とは、過去の作品との対照によって発生する。

私は、絵画教室を営むような一丁前の美術関係者を気取る御仁が、シャガールの絵を愛でるのを軽蔑する。
そのような即物的な「心理主義」で、シャガールの芸術が生まれたのではない。

彼が評価される理由は、パリのオペラ座の天井画に採用されたこと。それは、「天使が空中を舞う」ような伝統的な天井画に取って代わり採用されたのであって、それは、過去の作品群との対照において評価されたことを意味する。


浅薄な音楽教師は、ジョン・ケージの「4分33秒」というの無音の作品を、学校の教室で再現するという「ありえない行動」を取る。だが、演奏会というフレーム(メディア)がない教室では、「無音の音楽」は再現されない。

それは、トイレで便器を見つめたとしても、マルセル・デュシャンの作品の感動を想起できないのと同様である。


舞台演劇。宝塚歌劇団を初めて観れば、「大げさ」・「ワザトラシい」との違和感を感じる人は多い。
新劇をハジメた小山内薫は、「(自分たちの)新しい演劇」に、「歌舞伎の伝統」を持ち込まぬよう、

・踊るな。動け。

・歌うな。しゃべれ。

とのスローガンを掲げた。

私たちの感覚には、何かしらの「(芸術の)伝統」が「刷り込まれている」。
それらを「否定」するために、「意味・構成を廃した」芸術がある。

何度も指摘しているが、「存在を扱う」のが芸術。「意味を表現する」のがデザイン。


さて、ピナ・バウシュの演劇を放送大学「舞台への招待」で紹介していた。

20世紀が終わろうとする頃、世界的な演劇人・ピナ・バウシュの来日公演が幾度か行われていたが、懐事情を理由に行かなかったのを残念に思っていた。(同様に、ピーター・ブルックも観ていない)

とはいえ、あの頃、たとえ観ていたとしても、「20代のspontaが鑑賞できたのか」どうか疑問である。

講師の友人の女性は、バウシュの演劇を観た直後、「明日から私は、自分の生きたいように、生きるわ」と晴れ晴れと宣言したという。

ピナバウシュのウェブ情報。


放送大学の講師に言わせると、「舞踏を発生させる感情」ではなく、「舞踏そのもの」でもなく、「舞踏をさせているもの」を表現したところが、ピナバウシュのステージの特徴だとか・・・。このような本質的な理解を、若き日のspontaが感じ取ることができたのかどうかは疑問である。

モダニズム芸術の終焉期には、「意味」や「構成」を「意図的・作為的」なものとして排除する思潮があった。

ポロックも、デュシャンも、ジョン・ケージも同様である。

そのような作品鑑賞において、鑑賞者の妄念・洗脳を解放することを達成したのが、バウシュの演劇だった。勿論、そのような感慨に陥ることができるのは、「モダニズムの幻想・妄念」に洗脳されていることが前提である。

つまり、モダニズム芸術に「どっぷり浸かっている」なら、バウシュの芸術に感動することができるが、そうでないなら、「奇っ怪な動作を繰り返す演劇」との印象で終わってしまう。

「構成の不在」「意味の不在」を奇異なものとして感づくことが出来るか否かが、作者が観客に求めた「感動」を発生させるかどうかの条件なのである。


より分かりやすく言うと、ラフマニノフのピアノ協奏曲を何度も聴いていると、「エモい感じ(情緒的)」に飽きてくる。そこで、サティーの「無表情」な音楽が恋しくなる。

・・・そんな感じ。

ただし、音楽は不思議なもので、テリー・ライリーのミニマル音楽というのがある。
ミニマルとは、少ししか違わないことを意味し、それを繰り返すのが彼の音楽の特徴なのだが、作曲家の最晩年に至り、生誕を記念した演奏会では、無機的な作品を情趣豊かに演奏していたので驚いた。

歌いながら演奏することで知られるグレン・グールドは、「歌いながら演奏する」ことで有名。彼の演奏の本質は「カンタービレ」。まさに歌うことなのだろう。

そんな彼が所望する演目は、バッハやベートーヴェンという古典派。楽曲が「すでに歌っている」ショパンを演奏することはない。

グールドにとって、「すでに歌っている」楽曲を演奏することは、「ぬり絵に色を塗る」ような作業であって、「白いキャンパスに絵を描く」ような芸術的な行為ではないのだろう。


印象派〜表現派〜抽象派〜具象派

そのようなモダニズム終焉期の芸術家の営みがあった。

だが、ポストモダンの時代に入ると、それらの流派は「進化論的な順番・文脈」を解かれ、「並立して存在」し、新たなる「メタな認識」が求められている。


メタな認識を分かりやすくするために、落語の小咄を紹介する。

ラーメン屋が三軒並んでいた。
ある日、一軒のラーメン屋が「日本で一番美味い店」の看板を掲げた。
すると、隣のラーメン屋は「世界で一番美味い店」の看板を出した。
で、三軒目はどうしたって?
「銀河系で一番美味い」とでもしたのかって?
答えは、「入り口はこちらです」。

メタ論とはそういうことであって、実は「本論よりも、メタ論の方が強い」。

形式批評とは、「作品どうしで戦う」のではなく、「評価基準の優先順位」を決定することを「戦いとする」ことである。
posted by sponta at 00:00| 東京 ☔| Comment(0) | 芸術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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