2019年04月19日

芸術における「フランスと日本の誤解」。



ジル・ドゥルーズの「シネマ」。


この本は糞である。

なんで糞かというと、映画にもっとも近いのは、文学なのに、そのことに関する言及がないから。

結局のところ、哲学者・思想家として有名になった御仁が、「言いたいことを言える立場」になり、映画をネタに「自説でしかないもの」を披露した。

それだけのこと。

噴飯ものなのは、溝口作品における音楽を、「溝口のオリジナルの技法」と見誤ったこと。

溝口の映画音楽は、歌舞伎の手法を踏襲したものであり、「日本の伝統的」な技法・用法である。

*

アマゾンの読者評のひとつには、次のようにある。

ドゥルーズの映画論を読むため最低限の知識とは、グリフィス、ムルナウ、エイゼンシュテイン、シュトロハイム、ドライヤー、ブレッソン、パゾリーニなどの映画作家たち、さらに小津・溝口・黒澤のフィルムを観ていることが前提となる。なぜなら、『シネマ1*運動イメージ』では、ドゥルーズがとりあげている様々な映画のシークエンスを記憶の回路から引き出しながら読むことが、理解を助けるからだ。



だが、ストーリー・物語があってこそ、その上で、映像は存在する。

ポール・シュレイダーが「聖なる映画」として定義した、「作家性・スタイル性の強い映画」とて、「物語を排除することはできない」。


つまり、「物語あってこそ」の「様式」であり、「物語に関する考察」なくして、「様式」を分析することの妥当性は低い。

フランソワ・トリュフォー監督が記述した「ヒッチコックの映画術」にしても、ミステリー映画・サスペンス映画など「謎解き」があり、「観客を物語に引き込む要素が明確」なジャンルにおいて有効なメソッドであるに過ぎない。

ヒッチコックの作品が名作であり、彼が巨匠であるとしても、彼はミステリー・サスペンス映画の職人であって、「汎用的な才能があった」のではない。

芸術の本質は、「この世界の本質」を描くことならば、ヒッチコックは「娯楽作品の監督」かもしれぬが、「人間そのもの」の本質を描いていない。

一方、記述したトリュフォー監督は、恋愛映画をもっぱらにしたが、男女の恋愛・軋轢から、「人間の本性」が見え隠れする。

つまり、芸術家・トリュフォーは、職人・ヒッチコックに憧れたのである。

spontaが熱愛するトリュフォー作品「隣の女」のセリフは以下。

・あなたなしでは生きられない。あなたと一緒に生きられない。

ファニー・アルダン(トリュフォーの最後の妻)演じるこの映画のヒロインは、ラストシーンにおいて、元恋人である隣家の主人を誘惑し性交に持ち込むと、射殺し自死する。
恋愛は、そして、人生はママならぬ。理解不能だからこそ、人生の実相を描いている。


武満徹。

先日の「題名のない音楽会」。

ゲスト出演した音楽家(鈴木優人氏)は、ヨーロッパに留学した時に、武満徹が現代音楽家の最高峰としてリスペクトされていることに驚嘆したと発言した。

武満作品の彼の評は、

・余韻を効果的に使っている。

と。

しかし、spontaに言わせると違ってくる。

武満作品は「拍の概念」が希薄な日本人の特徴が現出したもの。長唄・新内・民謡において、律動(2拍・4拍・3拍などが繰り返される感覚)の要素は乏しい。

日本の芸術的な「時間感覚」は、「間(ま)」であって、そこに「律動」は存在しない。

鈴木氏が使用した「余韻」なる語は、西洋音楽の特質「律動」と対照関係にある。

つまり、ヨーロッパ人が武満徹を愛でたのは、異国趣味(オリエンタリズム)に過ぎぬ。

つまりは、溝口作品の音楽を溝口オリジナルと誤謬したのと同様に、武満作品の特徴を武満オリジナルと認識したのである。


アグネス・チャンが東京にやってきた時、寺社の境内にいる鳩を見て、「おいしそう」と思ったそうな。

同じ物を見ても、民族性・文化によって、感じるものが異なる。

庭先にやってくる鳩を見て「おいしそう」と語る彼女を野蛮と思ってはならぬ。それは文化の違いであって、個性の問題ではない。


私たちは、多様な価値観の中を生きている。

それがポストモダン。

posted by sponta at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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