2019年04月16日

あるべき「令和時代」。


平成はポストモダン(客観・相対主義)の時代であり、200年余続いたモダン(主観・進化論)の時代は、ベルリンの壁崩壊・ソ連の解体と同時期。つまりは、1980年代に終焉している。

というのが、この世界の実相である。

これは、フランス現代思想の結論であって、それが日本に移入・報道されないことが、日本のマスコミ・教育界の不実である。

---というのが、spontaの指摘である。


上記の結果、何が起きているかといえば、「権力を持った人たち」のサバイバルである。

逆にいえば、「権力を持った人たちが、サバイバルするため」に、「モダンな時代が終わったこと」は、巷間流布しない。

「権力を持った人たち」がサバイバルするために、「主観の時代」は否定されぬまま、今日に至っている。

つまり、spontaのように

・「権力を持たぬ人」しか、「客観論」に興味を示さない。


比ゆ的に言うなら、

・サッカー選手になりたい人は多いが、最初から、サッカーの審判になりたがる人はいない。


亡き父は、世の中は「善と悪の戦い」ではなく、「主観的な善と主観的な善の戦いである」との言葉を私に与えた。

その結果、「主観者の数」と「主観者の数」の戦い。つまりは、多数決が「決定権」を得た。

視聴率、選挙、アンケートが、客観的な結論」を出すためのツールとして、重用された。だが、それも、視聴率には電通、選挙には自民党、国民の調査には政府が裏工作をして、結果をねつ造してきた。

コンピューターで全数調査が可能である現代において、数百のセットトップボックスで視聴率が決定されるという昭和なシステムがサバイバルしているのは、茶番である。
アンケート結果が加工されていることが発覚し、野党が国会で追及しているが、その案件だけではあるまいに・・・。

1980年代までは、父の言う通り、「主観的な善と主観的な善の戦い」だったのかもしれぬ。そこにおいて、忖度も存在できた。


だが、平成の時代を経て、令和時代は、そうであってはならぬ。

令和の時代は、「形式批評」の時代であって、「評価項目」の優先順位を争う・競う時代になるべきである。




なんて思っているが、昭和の教育に洗脳された人たちが多く、私は絶望というよりも、諦観している。

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