2019年01月31日

松本清張、形式批評す。


先日のフジテレビ。三越の古代ペルシア展の贋作事件のドキュメント。

マダム・デビィーの話では、展示品が松本清張氏に吟味される機会があり、推理小説家は、「それを舐めた」のだという。

小説家曰く、「贋作は、年代を出すために、薬品で加工されているから、舐めると、薬品の味がする」のだとか。

清澄氏に「作品に接する機会があった」ということは、美術商が「販売目的で、有名小説家にコンタクトした」のだろう。

当然のことながら、清澄氏は、「贋作を見破り、購入しなかった」。それが、有名デパートで一億を越える価格で展示された。


セクスィー部長なる男優は、「自分の好みのおっぱいの条件」を問われて、「味」と答えている。


昭和を代表する推理小説家が、「古美術品の吟味」において、同じ答えをしたのは、笑止である。

昭和の小説家ならば、「近代主観主義(自分の主観が第一と考える)」により、自らの鑑識眼を披露すべきなのに・・・。


松本・小説家、前方後円墳の理由を、奈良県二上山の形を真似たと、オリジナルの理論を展開していた。二上山は、大阪湾から奈良に入る県境にあり、近くに当麻寺がある。

spontaは、前方後円墳は、「(日本の原住民のふたつの埋葬形式)円墳と方墳」を一緒くたに統治するために、設計されたのが前方後円墳であるとの説に同意する。

前方後円墳が短い時期で作られなくなったのは、「仏教による支配・統治」が可能になったからであろう。

古代史研究において、自らの主観を譲らなかった松本氏が、美術品鑑定には、「主観を排し、形式批評」に甘んじたのは、「主観の限界」を悟ったリアリズムである。


「主観主義」には限界がある。

たとえば、エロ動画。ウェブには、無数の動画が存在して、どれが自分の好みか分からない。
「タイトルに惹かれて」、なんとなく動画を見始めると、
ビートたけしのせりふではないが、


遠くから見たらうんこだった。近くに寄ってみたらやっぱりうんこだった。さわってみたらうんこ。なめてみてもうんこだった。

良かった、踏まなくて。

なんてことが起こる。


ならば、自分の好みをテキスト化・明文化して、「その条件を満たしたものしか観ない」ようにすると良い。


spontaの一番の評価基準は、「パーツの形状・色彩」「シチュエーション」ではなく、「自然光」。

「自然光かどうか」は、一瞬で分かるなら、無駄な時間を費やす必要はない。
(-_-;)


松本清張、セクスィー部長、sponta。

ま、そんな感じ。


posted by sponta at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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