2019年01月23日

アクティブ・ラーニングは矛盾命題である。



【本記事の主旨】

・「読解」の恣意性。

・「批判的読書」の主体性。

アクティブ・ラーニングは矛盾命題である。

矛盾命題とは、ソ連の作曲家・ショスタコービッチが交響曲第5番「革命」に、密かに託した思い。

・「強いられた歓喜」

のようなもの。
「歓喜」は本来、「強いられるもの」ではない。


平成の日本にしたって、「(占領国から)強いられた自由主義」であって、「真の自由」とは程遠い。


アクティブ・ラーニングを訳せば、「主体的な学習」となる。

だが、「学習」とは、本来「受動的(パッシブ・従属的)」なものである。

真に、「主体的」を意味させるなら、スタディー(研究)と銘打つべき。

アクティブ・ラーニングとは、情報工学でいうところの「先生付き学習」。つまりは、「答えが出ている問題」を解くこと。
そんなものが「主体的」といえるのか・・・。


結局のところ、「アクティブ(主体的)」か「パッシブ(隷属的)」かの違いは、行動の動機や達成後において、「使命・意欲」を感じるか、または「義務・屈服・屈辱」を感じるかの違い。


アクティブ・ラーニングの思想は、トヨタ・カイゼン・システムの「主役はあなた」のスローガンに等しい。

トヨタ・カイゼン・システムは、ハンバーガーチェーン・マクドナルドの「マニュアル教育」の対極。

カイゼンシステムでは、「マニュアルは不完全のほうが良い」とされ、現場従事者が、「マニュアルを自作する」ことが理想。

現場において、オペレーターとエンジニアの区別はなく、オペレーターが「エンジニア感覚を持って、日常作業に従事すること」によって、「事故の予兆」を敏感に察知して、事故を未然に防ぐ。

一方、マニュアル・システムでは、現場のオペレーターは、マニュアル以外のことをやってはダメ。

マクドナルドでは、台風がやってきても、お客さまに「労いの言葉をかけること」は許されず、「ポテトもいかがですか」と言うことしかできぬ。

もちろん、同社でも、イノベーションは行われているだろうから、「現実は、それほどでもない」に違いない。


さて、アクティブ・ラーニングの具体的な手法は、学生たちに、

・主体的に考えさせる。

ことだろう。

だが、それとて、「答え出ている」のだから、テレビの「クイズ形式の番組」と同じ。「正解を提示して、丸暗記」の方が時間の効率が高い。
ならば、大学受験など「学習効率」が気になる分野では、アクティブ・ラーニングは「空虚な理想」でしかない。


また、別の視点。

ローデータを要約し、要点を抽出することが、アクティブ・ラーニングの極めて具体的な手法だろう。
だが、spontaは、かねてから、

・要約がウェブで手に入る現代において、読解(機能批評)は、学問ではない。

と指摘している。

わざわざ「地の文を読み、要約を作ること」は、オペレーターの仕事であって、マネージャー・クリエイターの仕事でない。
実際、映画のプロデューサーたちは、原作を探すために「小説・マンガなどを要約する人材」を雇っている。


そのような事情にあって、「学習」を「主体的」にするための、唯一の技法は、「クリティカル・リーディング(批判的な読書)」だと思われる。

「ローデータを鵜呑みにする」のではなく、批判的に考察・総合した上で、「学習項目」と同じ結論に至る。
これこそが、空虚でない「クリティカル・リーディング」だと思われる。

とはいえ、「学生が出した結論」と「学習項目」が同じな確率は高いのか、低いのか。


・・・spontaの場合は、(テーマよりも重要な)メタ論を見つけて、脱線するケースが多い。

アクティブ・ラーニングは、絵に描いた餅。または、砂上の楼閣である。

spontaは、それよりも、クリティカル・シンキングが重要と考えるが、それを許容するほど、「アカデミストたちは寛容ではない」。


たとえば、spontaの以下の随想は、アカデミストたちの大いなる批判を浴びるだろう。というか、問題にもされぬ。


明治維新は西洋文化迎合の時代であり、大正時代は、その揺り戻しの時期。何故、日本が西洋文化に蹂躙されたかが多くの文化人によって自覚されていたに違いない。
そう考えると、中原中也の「汚れちまった悲しみに」は、言いようのない悲しみを描いたポエムではなく、戦死した友人が「英霊」として扱われたが、「西洋列強の帝国主義の犠牲になった」に過ぎぬと、詩人がある時、はたと気づいたのではないか。


与謝野晶子が「君、死にたもうことなかれ」は、本人に言わせると反戦歌ではない。歌人の実家は商家なので「兵士として死ぬ」のは不相応と指摘したに過ぎぬ。
詩作の背後には、「極めて具体的な背景・事情」があるが、それを後世の人たちは、「(自己都合によって)曲解する」。


オリンピックは「参加することに意義がある」とクーベルタン男爵は発言したが、彼は「勝利よりも、参加することが重要」とは一言も言っていない。

曲解は数知れない。


・テキストは、意味・内容ではなく、権力によって決定する。

フランスの現代思想家が言っていたっけさ・・・。
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