2007年06月30日

アルゴの時代51:民主主義&インターネットは、個が時代の傍観者でいることを許さない。

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「サイバージャーナリズム論」の最終校正を行なった。
あとは、すべて編集部にお任せとなる…。

本著について、読者の感想がある程度出切るまで(少なくとも出版後、数ヶ月)は、メタ感想しかスポンタはしないつもりである。
だから、数回にわたって本著を紹介してきたが、その内容については一切言論していない。

私のブログの紹介記事を読んで、この本を読んだつもりになることはできぬのだ。だから、7月15日には、書店に行って、735円を支出して、購入して欲しい。

とはいえ、全体の構成を紹介することにする。


タイトル:サイバージャーナリズム論

サブタイトル:「それから」のマスメディア

*

第一章:新聞ビジネス崩壊の予兆 歌川令三

第二章:「プロの記事」はブログより価値があるか? 湯川鶴章

第三章:テレビ局をめぐる大いなる幻想 佐々木俊尚

第四章:グーグルにあらずんば情報にあらず 森健

第五章:ウェブがもたらす「偏向」と「格差」 森健

第六章:メディアとはコミュニティーである 湯川鶴章

第七章:誰もがジャーナリストになれる?

第八章:「ネット」はいいこと尽くめではない 歌川令三

第九章:「知」の共同体とジャーナリズムの「それから」



現在のマスメディア&ネットが抱える問題がここに網羅されているといっていい。

このブログの閲覧者にとっても、そして、私にとっても、スポンタの言論を相対化・対照化するには、格好の書物である。

私は、この原稿たちを、東京財団の研究報告書の段階、そして、ソフトバンククリエイティブが起こしてくれた初稿ゲラによって、数度読んでいる。

読む度に、私は、自分の中のネット者としてのステークホルダー(立場・自己利益)・ルサンチマン(感情・怨念)が、ムズムズ・むらむらしてくるのを感じる…。

きっと、この本を読んだ読者も、心の中にあるステークホルダー・ルサンチマンが、呼び起こされ、感情がざわめくだろう。

私には、それがテレビ朝日の「朝まで生テレビ」の討論を見終えたときに視聴者が感じるものと似たような性質のものではないかと考えている。




それは、登場する人達の言論が対立・摩擦するからではない。

本著作が、「読者たちが傍観者でいることを許さぬ」。

そういう厳しいメッセージを突きつけているからである。


読者が、既存メディアの文脈にいるのか。それとも、既存メディアを批判する文脈にいるのか。
ネット者なのか。ネット批判者なのか。

それぞれがあっていいし、それを確認できることが、本著の魅力でもある。



かねてより私は、さまざまな問題を抱えながらも日本は民主主義で営まれている。
ならば、すべての個は日本社会の原因のひとつでもあり、すべての日本人は、自分を日本社会の外において批判することはできぬ。
と指摘している。

同様に、発信する機会が得られているインターネットの時代、全ての個はメディア言論と無関係ではいられぬのである。

何か事件・問題がおきたとき、その問題を指摘しなかった自分にも少なからず(1/1億3千万)の責任がある。

そして、仮に発言をしていたたとしても、それが社会的な影響力を行使できていないのだから、そういう社会的な影響力を獲得していない自己を反省すべきなのだ。



私は、そのことを、2005年のライブドア・パブリックジャーナリズム参加時に気づいた。

インターネットの時代。すべての個は時代の傍観者でいることは許されぬ。


自らの発信力のなさを嘆くことは許されぬ。
反省あるのみ…。

*

今回の書物において、私は、ライブドアPJで市民参加型ジャーナリズムを実践したという文脈で紹介されている。だが、ライブドアPJの一瞬の輝きは失われ、同巧の市民参加型ジャーナリズムと合体していると聞く。

だが、間違ってはいけない。

それをして、市民参加型ジャーナリズムに成功の道はないなどと断じてもらっては困る。

市民参加型ジャーナリズムはブログと同じではないのだ。

市民参加型ジャーナリズムとは、メディアの力で個の発信を「オーソライズ」するシステムなのだ。

その唯一の例が、あの数ヶ月に満たないライブドアPJが輝いた時期(2005.3月〜5月)である…。

ホリエモンがニッポン放送株大量取得が国民的な関心事となったときに、ライブドアPJは絶大なオーソライズ力を得ていた。
ライブドアPJは世間から注目され、文芸春秋の記事からすれば、日本の代表的な言論人である立花隆氏も、私の文章を読んだに違いない。

市民参加型ジャーナリズムが成立するということは、そうした個の言論でしかないものを、広く伝播させることである。

今も存在する市民参加型ジャーナリズムたちが、自らのオーソライズ力を高める努力をせず、個の意見の発信のみに専心していることは、このメディアの特質・本質を理解していないことだと思われて仕方がない。

※ 私がライブドアPJで経験したことは、幻想の市民参加型ジャーナリズムに詳しい。

*

絶大なる知名度を持つ、鳥越俊太郎氏がオーマイニュース日本版の編集長を退任された今、一切のオーソライズのための努力はなされていない。

思えば、滝川クリステル氏が虎ノ門のオフィスに訪れたにも関わらず、何らテレビで報道された記憶はない。
あのとき、オーマイニュースはすでに終わっていたのかもしれぬ。

あのとき、ハーフ(ダブル)としては凡庸な風貌でしかないクリステル嬢の前に、オーマイニュースの編集者たちは、一般ピープルと化していた。同業者としてのマナーも対抗心もなかったのでは、このような行く末も当然のことだろう…。

鳥越俊太郎氏とのメイルのやりとりは数回で終わってしまった。

彼も、編集長を降りられたことだし、彼と腹を割って対談することも面白いのかもしれぬ。

メディア関係諸氏に、企画として提案したい…。

07sponta

宮台真司氏と浅田彰氏を挙げながら、対話を阻むものの存在について言及するつもりだった。

対話を触発しない宮台氏と、インテグレーター&オーガナイザーに流れた浅田氏…。

宮台氏の講義を読んでみると分かりやすい。

Wikipediaよれば、

「噂の真相誌上で、田中康夫らと対談する中で、自身を「あらゆる物を引っ掻き回して、逃げてしまった人」と批判した宮台真司を、「80年代に目立とうとして、目立てなかった人だからいいんじゃない」と、軽くあしらったことがある。

というエピソードがあったという。

グランドセオリーもまた、「純粋律を操ること」でもある。
それが対話を触発しない…。

※ 社会システム理論とか、あるいは社会学的機能主義ないし機能主義的社会理論と言われるようなものは「グランド・セオリー」と言われます。

などと、不遜な私は考えてしまう。

近いうちに論じることにしよう…。
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