2007年06月29日

アルゴの時代51:サイバージャーナリズム論にみる「対話」。

7/15に、ソフトバンク新書から、「サイバージャーナリズム論。「それから」のマスメディアという本が出版される。

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執筆者は、歌川令三氏(「新聞のなくなる日」)、湯川鶴章氏(「爆発するソーシャルメディア)、佐々木俊尚氏(「グーグルGoogle」)、森健氏(「グーグル・アマゾン化する社会」)、そして、私である。

私は、この本の素晴らしさを「対話」だと思っている。

そして、前回のエントリーで、対話を成立させるものとして、3つあることを指摘している。


1. 情報共有。(そして、情報の重要度の共有)

2. ステークホルダー(立場・利害)を越える。

3. ルサンチマン(怨念・感情)を越える。


「対話に勝ち負けはない」と、2ちゃんねるの西村博之氏は言う。

その含意を私なりに考えると、「対話の結果、どちらかの言論に集束すること」ではなく、「対話の結果、双方の言論が止揚(アウフヘーベン)され、対話による気づきの中から、新しい言論が生まれる」。
そういうケミストリーな出来事を理想とすることではないか。



考えてみれば、対話の3条件とは、対話に参加する個が、自らに問いかけるものであって、対話者が相手に突きつけるものではない。

何故なら、ステークホルダーを越えているか。ルサンチマンに捉われていないかというのは、個の内面の問題だからだ。

その不毛を理解せず、対話者が相手を指弾すれば、対話は理想の対話とは大きく異なってしまう。
つまり、個の主張を対峙させるだけの平行線な議論となる。



たとえば、東国原宮崎県知事がいる。

彼が何をしているかといえば、宮崎県民というステークホルダーの奴隷となることである。

彼が、宮崎産地鶏や太陽のマンゴのプロモーションをしている場合はいい。
だが、彼が、「ふるさと納税」に関して、語る言論はステークホルダーの奴隷という立場から発せられたものであって、何の説得力を持たない。

たしかに、石原東京都知事は、東京都民というステークホルダーにいる。
だが、彼が猪瀬氏の副知事就任について、投げかけた言葉は、「お国のためにがんばってください」である。

つまり、国とたたかうための戦力として、猪瀬氏を副知事に起用したが、その究極の目標は日本という国のためなのである。

否、そうではない。
猪瀬氏が戦う国とは、霞ヶ関であり、永田町である。
そして、石原氏がお国という言葉で形容したのは、日本というコミュニティーなのだ。



私は、「ふるさと納税」などという小手先の所作が、日本の将来にとってよいことだとは思わない。

平等というフラットな規範が加速させた一極集中・中央集権を是正するためには、もっと根本的な対策が必要であり、「ふるさと納税」は、その問題を先送りすることための施策でしかない。

お金の流れを中央から地方に動かす前に、人の流れを一極から分散させていくことを真剣に考えなければならぬ。
否、お金が東京に集まることを是認する「ふるさと納税」は、東京への一極集中を加速させる可能性もあり、それは、より一層、地方の衰退を加速させる要因ともなりかねない。

*

私がかねがね主張していることは、2007年の私たちは、江戸時代の叡智に学ぶべきである。
ということだ。

江戸時代は、士農工商という身分制度があったが、それぞれの階層が、身分相応の暮らしを満喫していた。
勿論、飢饉は断続的にあったし、経済的にも困窮したことも事実だろう。
だが、江戸時代から良い所取りの引用は可能である。

江戸時代の日本は、ゆるやかな連邦制であった。という分析がある。

優れた人材は、ペーパーテストではなく、藩校でもまれた総合評価で決定する。
藩校で評価された人材は、長崎や江戸・上方に出て、日本を牽引する傑物になっていく。

戦前の高等学校制度は、その制度を踏襲している部分もあったのではないか。

銀座育ちの吉行淳之介は、静岡高校を卒業する。

淳之介の両親の郷里は岡山県だが、第二の故郷は静岡である。同居人・宮城まり子氏が、ねむの木学園を静岡で運営していることは、淳之介のそんな思いが影響しているに違いない。

私の父親が戦後に卒業した大学は地方大学のひとつでしかないが、その前身の第四高等学校は、日本を牽引する才能を育んだ…。

そのように、日本を牽引していく才能たちが、青春の一時期、地方に散らばり第二の故郷を作る。

そのようにして、一極集中・中央集権的な社会の文脈が崩れていく。それをこそ、模索すべきなのだ。

*

では、何故、淳之介が静岡高校に進んだのかといえば、健康に瑕のある彼が温暖な気候を求めたのかもしれぬが、素直に考えれば、東京にある第一高等学校に進めぬと判断したから。というのが、自然な考えだろう。

このような必然を誘発する制度をつくることが、政治に求められているのだと、私は思う。
つまり、いま起きていることを埋め合わせるための制度をつくるのではなく、あるべき明日のための制度を模索すべきなのだ。

ま、簡単にいえば、インセンティブ(外部的動機付け)。つーことになるのかなぁ…。



脱線してしまった。

話を戻そう。

対話の3条件を克服するために、何が一番有効であるかといえば、匿名であることである。


匿名であれば、情報共有をしない個は、対談の資格なしとして対話のコミュニティーを追放される。

匿名であれば、個のステークホルダー(立場・利害)への拘泥は徹底的に批判される。

匿名であれば、個のルサンチマン(感情・怨念)は発信者の評価を著しく低下させる。


匿名の欠点は何かといえば、個の継続した文脈を得られぬことである。だが、それは、情報共有によって、補完できる。

もうひとつの欠点は、無責任な発言かもしれぬ。だが、これはフィルタリングシステムを充実させることによって、忌避できる。否、無責任な発言は、そこに低評価という重要度のタグがつくので、事実上問題はない。

*

KKKのような装束(鉄人28号のPX団な感じ)で会議をするのは異様である。

だが、KKKの装束をしなければ本音の議論ができぬこともまた、事実である。

私が現実的だと思うのは、会議はKKKで行い、そのオーソライズは、記名・実名で行なうというものだ。


そこに何の破綻もないと、私は考えている。

疑問・反論がある方は、是非ともコメントして欲しい。

*

従軍慰安婦問題が異様なのは、戦後60年という時の流れを無視して、米国議会が決議したことである。

もちろん、その是非について、私は池田先生に同意する。だから、徹底的に言論したい部分もある。

だが、その案件の重要度に関してみれば、極めて低い評価であり、それに関連して言論することによって、高い重要度を感じているという印象をつけたくはない。
気分は安倍首相と同じ。なのだ。



「サイバージャーナリズム論」に戻って考えてみよう。


歌川先生は、新聞社の経営を批判する文脈がある。だが、世の中の見方はイデオロギー的である。
スポンタも、新聞社を批判する文脈がある。だが、イデオロギー的な言論に価値を見出さない。

森健氏は、イデオロギー的な言論よりも、社会学的な手法を使う。だが、ジャーナリズムは職業と言い切る。
スポンタも、社会学的な手法を好む。だが、ジャーナリズムは職業ではなく、民主主義にとって重要な要素と位置づける。

湯川氏は、「爆発するソーシャルメディア」と説き、ジャーナリズムには対話が重要と指摘する。
スポンタは、ソーシャルメディアの時代は来ないと考えるが、ジャーナリズムには対話が重要という彼の言葉に共感する。

佐々木氏は、グーグルに興味を持ち、オーマイニュース日本版の問題を指摘する。私も、グーグルにアルゴリズムという概念を教えられ、オーマイニュース日本版の誕生にあたっては、鳥越氏とメイル交換をした。
だが、M氏ことのは問題では、対極にいる…。


そのような共通項と対立項を併せ持つ個が、一つの本の中で蠢(うごめ)いている。

こんな本はめったにない。

凡庸な対談本では、コラボレーションという名のもとに、異分野の対談者が寄り集まって、予定調和な言論を紡ぎ出す。対談相手の言論と自分の言論の間に共通項を見つけることに終始し、それが見つかったといって自己の言論の普遍性を引き出して満足するだけである。

否、殆どの場合、対話者のどちらかの圧倒的な勝利で対談が終わる。
武術家・甲野善紀氏の対談本はだいたいそんな感じだ。

だが、仏教者・玄侑宗久氏の場合はそうではない。彼と対談者たちが操るのは個の文脈ではなく、千年を越える歴史で鍛えられた仏教という文脈である。その絶対的な文脈の中で、対談者という個の存在はあまりに小さい。



「サイバージャーナリズム論」がどのような対話をしているのか、7/15になったら、それを確かめるために735円の出費をして欲しい。

対話は、我々執筆者の間で起こるのではなく、読者の思考の中で起こる。

いまから7/15が待ちどおしスポンタである。

07sponta

言論するということは、それ自体、当該案件の重要度を共有するということになる。

私が一貫して、M氏というイニシアルでしか表現しない理由もそこにある。私は、M氏に拘っているのではない。いかなるバイラル汚染からネットを守らなければならぬ。

それがパソコン通信を経験した世代の責任であると信じている。



追記:

このエントリーは、池田先生が、著作権者の代表として活動する三田誠広を読んで、シンポジウムをするとの、メイルが届いたことから、あげている。
中上健次は死んでしまったから、もう三田氏を殴るような傑物はいないのかもしれぬ…。

あの時代が懐かしい。
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