2018年06月27日

「日本のドラマ」論。


私が二十歳前後の頃、つまりは1980年前後の日本ドラマの傑作を3シリーズ見た。


・「前略、おふくろ様」
・・・倉本聰脚本、第一シリーズ、第二シリーズ。計20数本。

・「阿修羅のごと」
・・・向田邦子脚本、第一シリーズ、第二シリーズ、計6本。

・「夢千代日記」
・・・早坂暁脚本、第一シリーズ、第二シリーズ、計10本。


驚くべきことは、ドラマの本質を「人間関係の〈対立〉=アンタゴニスト」とするなら、これらは「ドラマではない」。


週間フジテレビ批評で、TBSの演出家・鴨下信一氏が、「いまのドラマにアンタゴニストがない」と、昨今のドラマの不調の原因を指摘したが、日本のドラマ史上に輝く名作にも、「アンタゴニスト」はない。

アンタゴニストの代わりをつとめる要素は、「主人公たちの葛藤」。


つまり、「紅勝て、白勝て」という戦いではなく、「赤い饅頭にするか、白い饅頭にするか」を迷うのが「日本のドラマ」なのである。


だが、鴨下氏は「見誤ったのではない」。

・「人間の存在や、この世界の本質」を描こうとする〈アポロン的〉な作品と、

・「観客の感情を動かすこと」を目的とする〈ディオニュソス的〉作品を分類せずに、

一刀両断に「アンタゴニストがない」と切り捨てたのである。


私は、倉本聰・向田邦子・早坂暁の3作品を評価している。年間ドラマ大賞を得るのは、「このタイプ(アポロン的)の作品」だと思う。

しかし、一週間、働いて疲れた人たちを癒すのは、心温まるホームドラマや、痛快な時代劇、恋愛ドラマなどの「娯楽作品(ディオニュソス的)」である。



映画学校に通っていた頃の私は、「アポロン的・ディオニュソス的」という概念を知らなかった。

せいぜいが、「悲劇・喜劇」という分類。だが、それは、「シリアス(真面目に人生を語る) or コメディー(笑わせようとする)」というタッチの問題であって、本質的ではないような気がする。

私は、ディオニュソス的なドラマを理想としたが、その仕事にありつくための人脈を探り当てることができなかった。そして、そのような価値感を持つ私の書いたシナリオが「懸賞シナリオ」で当選することはない。


〈アンタゴニスト(人間関係の対立)〉の代替として、主人公たちの〈葛藤〉が重要な役割を果たすのが、日本で評価されるドラマである。

しかし、そのドラマツルギー(作劇法)が徹底されないと、〈葛藤〉するだけで「行動しない」優柔不断な主人公が作品を台無しにする。

昭和の傑作ドラマにしても、〈葛藤〉の表現に「心の声 or ナレーション」を用いたり、テーマ曲で盛り上げたり、というか、シナリオ学校では禁じ手とされる「生セリフ」を使うことも珍しいことではない。

※ 生セリフ: 登場人物の気持ちを、その人物のセリフで表現すること。女性が男性に「あなたのことが好きです」というのは、女性の気持ちを説明する〈説明セリフ〉であり、感情をそのままにした〈生セリフ〉。ふたつのタブーを犯している。
「私の母は薄幸である」というのは、説明。シンガーソングライターのさだまさしは、「運だ良いとか、悪いとか、人は時々口にするけど、そういうことって、確かにあると、あなたを見ていて、そう思う」とつづることで、説明を避けた。「無縁坂」の歌詞である。


ドラマの必須条件は、「説明ではないこと」。

制作者たちは、観客に「あらすじ以上のものを提供しなければならない」。

そんなことさえ、できていない作品があまりに多すぎる。

鴨下・演出家は、破断的に「アンタゴニストがない」などと、ジャーゴン(専門用語)を持ち出すのではなく、ドラマとして欠格する「必要条件」について明らかにすべきだったと思う。


「ドラマの楽しみ」は、対立の解決。それは、音楽のコード進行における「ドミナントモーション」に同じである。
しかし、「ドミナントモーション(G7→C)の強い」曲が単純に聞こえてしまうので、さまざまな技法が生まれてくる。ビル・エバンスは、sus4でドミナントモーションを代用した。

ドラマでも、同様である。
posted by sponta at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | ドラマ・映画・演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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