2018年06月26日

「夢千代日記」をひさしぶりに観る。

最近の作品では、「ダメな演技」が目立つ吉永小百合嬢だが、この作品では何の問題もない。


小百合嬢の「ダメな演技」の理由は、「朗読の癖が出て、セリフに感情を込めてしまう」から。
「理想的な演技」とは、「セリフ・感情・動作」のそれぞれを「孤立的に扱うこと(アイソレーション)」である。

※ 朗読では、朗読者は「(すべてを知っている)神の立場」だから、「感情とセリフが同時に発生」しても、違和感はない。

だが、人間は、「感情が、セリフになる」。

または、「セリフが、感情を盛り上げる」。「感情とセリフが、ヨーイドンでスタートすること」はない。

だから、そういう演技を観ると、観客は違和感を感じる


「夢千代日記」の劇構造は、極めて特殊である。

ドラマの舞台となる裏日本の温泉街は、「終着駅」であり、「夢千代日記」は、「終着駅」にたどり着いた群像たちの「終末」の物語。
奥村チヨの大ヒット曲「終着駅」の世界。


冬の鈍色の空。日本海の冬の荒波。遠い海鳴り。厳しい寒さ。
ヒロインは原爆病により余命3年と宣言されている。

それらが「終末感」を盛り上げる。

このドラマにあるのは、〈焦燥感〉〈喪失感〉だけ。〈進行感〉はない。
群像として登場するのは、「死にきれなかった女たち」。


このドラマを、原爆の被災者を扱った「反戦ドラマ」と解釈するのは、浅薄である。

劇作家の寺山修司は、「人間は不完全な死体として生まれてくる」と語っていたが、「不完全な死体」という意味で、観客は夢千代に同化できる。


秋吉久美子演じる温泉芸者は、アマルベ鉄橋、そして、冬の日本海に、二度死のうとして果たせなかった。
死にきれない彼女は、血のつながらない女の子を育てることで、なんとか「生きるつづける」ことができた。その女の子を「産みの母親」が取り返しに来ることが、ひとつのドラマ・・・。

脚を引きずる女の子(中村久美)は、働き口のない田舎で、ようやく芸者として生きる道を見つける。

夢千代の置屋で働く芸者たちの人間模様が、作品の〈終末感〉を深めていく。




このシリーズの冒頭には、「シリーズ・人間模様」というタイトルが流れる。

NHKの朝ドラに、「連続テレビ小説」というタイトルがあるように、NHKの幹部は、「ドラマと小説の違い」が分かっている。

ドラマ「夢千代日記」も、夢千代が主人公のドラマではなく、「人間模様」。つまりは、叙事詩的な群像劇である。


人生というゲームで「勝った」と思って生きている人が、どれほど存在するのだろうか。

「勝った」と思っている人はごくわずかで、ほとんどの人は、心密かに「負けた」と思っているのではないか。

ビジネスで成功した人でも、本当は、ミュージシャンになりたかった。そんな話は珍しくない。


第1シリーズは、夢千代を頼って帰ってきた元芸者(片桐夕子)が逮捕され、川崎からやってきた刑事(林隆三)が職を辞し、この街に足をおちつける余韻を残して終わる。

第2シリーズは、いしだあゆみ演じる「母親よりも女性として生きることを選択した女性」の顛末。
石坂浩二演じる画家は、夢千代に恋心を寄せる。だが、余命の少ない自分は、人を幸せにすることはできない。すがってはならぬと、夢千代は、彼を拒絶する。その後、変心し、「春になったら」と再会を約束する。
だが、彼は冬の海で難破し、亡くなるところでドラマは終わる。

〈終末〉のドラマにふさわしい幕切れである。


このドラマには、〈葛藤〉はあるが、〈アンタゴニスト(人間関係の対立)〉はない。

原爆病がストーリーの底にあるので、「反戦ドラマ」のように思われるかもしれないが、半島南が半世紀以上経っても損害賠償を要求するようなタイプではない。

戦争は「人間の原罪」。死は必然。それを、どう受け入れるか。

それが生きる人の悩み・・・。

posted by sponta at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | ドラマ・映画・演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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