2018年06月20日

ルーブル美術館展のキッャチは間違っている。


「肖像芸術−−−人は人をどう表現してきたか」というタイトルで、ルーブル美術館展の宣伝がなされているが、テーマの立て方が間違っている。
芸術鑑賞において重要なことは、

・how(どうやったか)ではなく、
・what(何をするため)が

  本質である。


「どうやって殺したか」よりも、「何故、殺したか」が重要と、殺人事件をアナロジー(類推)すれば、納得していただけるだろうか・・・。
「毒殺か、刺殺か・・・」なんてことより、「殺人の動機(殺意)」が重要なのだ。


美術展の学芸員は、何を考えているのか・・・。「芸術」のことが全く分かっていない。


放送大学の美学・芸術学の青山昌文教授は、ドイツ・ルネサンスの画家・デューラーが書いた二つのマルチン・ルターの肖像の違いを指摘している。

ふたつの違いは、依頼主がプロテスタント派か、旧守派の違いであり、旧守派の肖像は「頑固もの・偏屈」として描かれるが、プロテスタント派の肖像は「聡明な宗教者」として描かれている。

「(頑固者・聡明)どう描かれたか」よりも、「(旧守派・プロテスタント派)何を描いたか」が本質的な理解である。

青山教授は、「芸術は、作家のオリジナルな個性によって創造される」のではなく、「依頼主の意図」によって「創造される」ことを、このエピソードで指摘している。


肖像が「何のために描かれたか?」
その代表は以下、

・神格化して見せる。
・高貴に見せる。
・裕福に見せる。
・善人に見せる。
・美人に見せる。

そのような「制作動機」が不純だと思ったのが、

「人間は、肉の塊に過ぎない」とするフランシスコ・ベーコンであったり、
同じ顔の人が多出するアンリ・ルソーの絵画である。ルソーは、「貧富・貴賤に価値はない」・「人間は皆同じ」と言いたかったのだろう。


芸術は、哲学(世界の本質・存在)に通じている。
そのことを理解しない専門家たちが、日本の美術界を跋扈しているのは、悲しい現実である。
posted by sponta at 00:00| 東京 ☔| Comment(0) | 芸術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

ファン
 メッセージを送る
 このブログの読者になる
 更新情報をチェックする
 ブックマークする
 友達に教える
RDF Site Summary
RSS 2.0