2018年05月29日

純粋・村上春樹批判。(グルーヴは、うねりではない)


私は、当時の彼女から「風の歌を聴け」をすすめられて読んだが、何も感じなかった。

その後、「ノルウェイの森」に熱狂する後輩にもついていけなかった。

そのことは、「私の感性は、世間とズレテイル」と反省させた。


私はかならずしも「小説が嫌い」というのではない。

吉行淳之介の小説は読破しているし、司馬遼太郎もほとんど読んだと思う。面白いものは、面白い。
宇野千代の「おはん」は、傑作だと思う。

だが、村上春樹には、何も感じない。


さて、彼のエッセイに「意味がなければスイングはない」というのがあると知る。

元ジャズ喫茶のオーナーである彼が、「いい加減なこと」を言うから困る。


あとがきで村上は「ただの言葉遊びでこのタイトルをつけたわけではない」「この場合の『スイング』とは、どんな音楽にも通じるグルーヴ、あるいはうねりのようなものと考えていただいていい」と述べている。

× どんな音楽にも通じるグルーヴなど存在しない。

× グルーヴが存在できるのは、堅調な〈タイム感(メトロノーム)〉がある場合だけ。テンポルバートの音楽では、グルーヴはありえない。

× つまり、「うねりのようなもの」がグルーヴと考えている時点で、村上春樹は、「グルーヴを理解していない」。




ニューハード(ビッグバンド)出身の片岡雄三氏は、「ビートをバンドに預けると、グルーヴできない」と、体罰で全国的な知名度を得た日野皓正校長の中学生バンドで指導している。

この場合のビートとは、〈タイム感〉のことである。



「グルーヴは、うねり」などという「分かったような・分からないような表現」を使うのが、「文学者のやり方」だとしたら、愚劣である。


スウィングの明確・正確な定義をしない・できない。

・・・グルマン的(量を誇る)にジャズを鑑賞してきた人なのだろう。

スウィングとは、「クロノス時間からの微妙な乖離(カイロス時間)」である。それを、村上氏は分かっていない。




さらにいうと、「音楽は意味を表現しない」。
音楽が表現するのは、「意志」である。


ベルリオーズの幻想交響曲の最終楽章のように、「マリー・アントワネットの処刑に至るシーン」を時間を追って「意味」を表現するのは、陳腐。

ベートーヴェンの「運命」や「熱情」など、「意味ではなく、意志」を表現するに留めるのが、「芸術的」である。


村上氏は、モダニズムの人、知性の人であり、

spontaは、ポストモダン。anti知性の人。

二つの立場の違い。

破断的に、「キース・ジャレットは胡散臭い。ウィントン・マルサリスは退屈」などと言ってもらっては困る。きちんと形式批評してもらわなければ・・・。

ここにおいて、村上氏は、「革新を求める」というジャズの本質は分かっている。ただし、破断的に表現している。

私が解説するなら、
キース・ジャレットは、「大衆から支持されている時点で、革新なのかどうか疑わしい」。ウィントン・マルサリスは、「過去のジャズを追っているだけで、革新ではない」。



・・・な感じ。純文学のファンは、ジャズのファンとかぶっていると思ったので、あえて記述した。
posted by sponta at 08:05| 東京 ☁| Comment(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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