2018年04月29日

親は「否定すること」に、最大限の注意を払わなければならない。

「生成自己肯定感フレーム」について考察している。

人間は〈生得的〉に、承認者と承認項目というフレームがあり、それを満たすことで、人間は「情緒の安定」を得て、「自殺願望」を回避する。それが〈自己肯定〉感の確立である。



娘がファルセット(裏声)ができないのは、「私がファルセットを否定した」からだと、娘から言われた。歌の先生とレッスンをしていて、そういう話題になったのだとか・・・。

私は、「逃げのファルセット」はダメだが、「攻めのファルセット」は否定していない。スイス民謡のヨーデルは勿論、オペラのコロラチュールもファルセットであることを理解している。

娘が歌の勉強をするようになって、「地声とファルセット」のブレンドでハイトーンを目指すことを知ったが、娘には「なかなか難しい」よう。
私の「何気ない発言」が娘のトラウマ(承認項目)になっていたらしい。




私の父は、年がら年中、人の悪口を言っていた。

親戚、会社の部下、テレビタレント、俳優、音楽家・・・。

それらは断定的であり、「何故、ダメなのか・・・」を私に解説することはなかった。

親戚や、会社の部下のことは、その実際を知らないから、父の言うことが「正しいのか、間違っているのか」は分からない。

私は成人になってから、北陸に暮らす伯母と親しくなったが、父が言うような「極悪非道な人」ではなかった。「子の物言い」にびくびくしている小市民だった。

・森繁(久弥)は、クサい。
・小澤征爾は、浪花節。
・中村紘子のピアノはクソ。
・アメリカン・ヒューマニズムのドラマは、低俗。
・歌番組を観るのは、アホ。


私にとって、それらは〈承認項目〉になり、その妥当性を吟味するのが、私の青年期の課題になった。

その結論は以下。


・最適な演技は、「演技過剰」と「素朴派」のバランスによって決定する。
※その意味で、森繁は「演技の上手さ」が際だつが、「素朴派」の立場からは、「演技過剰」に見える。

・小澤征爾の指揮は〈タイム感〉がないので、日本的。感情的な時間操作は、浪花節的と形容できる。

・中村紘子のピアノも、技巧的には優れるが〈タイム感〉が欠落している。ピアノの音の美しさも大したことではない。

・「わんばくフリッパー」などのヒューマニズムのドラマは、日本人を「行動不能」にさせる洗脳ツールである。(ヒューマニズムの考えがあれば、特攻・玉砕はできない)

・歌の魅力を分析的に考察していく。




「自己肯定項目」の妥当性が否定されると、それは「承認者」の妥当性の否定につながる。

当然、承認者を否定すると、自己否定にも直結する。

私の場合は、結婚した頃(33才)にしてようやく、「承認者の否定」が確定。さらに、42才にして、「親(承認者)から絶交」されるのだから、わかりやすい。






「子育て」において、「人格形成」において、

〈承認者・承認項目〉が、

最重要(クリティカル)である。






〈承認者・承認項目〉に妥当性が欠落していた場合は、「個・子」は混乱する。



貴乃花親方は、「来世もお相撲さんになりますか?」の問いに、「家業を継ぐ」と応えているのは示唆的である。

俳優・香川照之は、東大を卒業したのに俳優になったし、平幹二朗の子息は医者免状を取ったのに、家業である俳優になった。(合理的判断とは無関係である)


それらの原因は、〈承認者〉の妥当性と〈承認項目〉の妥当性であり、インストールされたふたつが、〈子の知性・理性〉によっても承認されたことを意味する。


人間は常に合理的な判断をするものではない。ヤクルトの元捕手・古田敦也氏は、プロ野球に誘われた時、母親から、このままトヨタ自動車にいたほうが「生涯賃金だ高い」と諭されたという。母には、「メガネのキャッチャーがプロの世界で通用するはずはない」との先入観があったのかもしれない。だが、「人生は挑戦」である。




一方の私はといえば、〈承認項目〉に妥当性はなく、〈承認者〉も否定した。

このような「悲しい人生」を私以外の人に味わってほしくない。



「妥当性のある人生」とは、「身の丈にあった人生」である。


「理想を持つべき」「夢を持つべき」だが、それは、「背伸び・つま先立ち」をする程度であって、藁をつかむような「人生を台無し」にするようなものであってはならぬ。
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