2018年04月15日

「きらくら(気楽にクラシック)」で名前を読まれる。

NHK-FMの音楽番組にメールを投稿したら、番組の最後に名前を読み上げられた。
深夜放送を聴いていた高校生以来のことでビックリしたが、正直うれしかった。



投稿内容は、オープニングに使われている「子犬のワルツ」の冒頭がタイムを乱しているという指摘。ネガティブな表現なので、番組内で読まれることを望んでの投稿ではない。



ちょっと嬉しかったので、再度メールを打ってみようと思う。ただし、400字以内だから、工夫が必要。

さらにいうと、粘着質なクレーマーに思われるのも心外だから、どうしようか・・・。

ということで、こんなテキストを書いた。



フランス人は、ワインと料理の相性を気にしますが、それは「味覚の残像」大きいから。

日本人は幕の内弁当を食べても「味が混じらない・濁らない」が、フランス人は、コースで食べないと「味が混じって、美味しくない」。

日本人は「とりあえずビール」を恥じることはない。



音楽も同じ−−−。

西洋は和音の残像が残る音楽。「ドミソ」の和音でも、Cの和音とは限らない。聴く人にラの音が残像していれば、Am7になる。

和音の残像があるから、コード進行を感じるのです。



律動でいえば、日本は、拍が残像しない「間」の音楽。
一方、西洋は、拍が残像する音楽。

拍の残像があるから、拍との微妙なズレを作って「グルーヴ・スウィング」を楽しむことができる。

グレン・グールドやリヒテルは、堅調な拍(パルス)を持ちつつ、エモーショナルな演奏を実現する希有な才能。

リヒテルのピアノ演奏をリクエストします。

378字




「(言語とは異なり)音楽に国境はない」という間違った考えが、世の中に広まっている。

だが、
「音声」から「意味」を抽出する時、「鑑賞者が所属する文化」の影響は免れないし、「音声」を「音声」としてのみ鑑賞することなど、ありえない。

私たちは音楽的な文脈において、モーツアルトやバッハを鑑賞する。そして、「鑑賞体験」を積み重ねていくと「鑑賞内容」も変わってくる。


それは、民族においても、同様である。



たとえば、ショスタコビッチの交響曲第五番。
「戦艦ポチョムキン」の映画音楽にも使われていることで知られるこの交響曲は、革命の「歓喜」を表現したとされる。

だが、作曲家本人が表現したのは、「強いられた歓喜」。
−−−それがバレて、彼は窮地に陥る。

作曲家に種明かしをされると、もはや「革命礼賛の歓喜の交響曲」として鑑賞することはできない。
共産主義者たちに「歓喜することを強制された」人民の屈折を、音楽から読みとる。

・・・ショスタコビッチが誠実だったことは、ソビエトの崩壊によって証明される。




音楽に国境はない。などというのはねつ造であり、妄想である。

posted by sponta at 00:00| 東京 ☁| Comment(2) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そんな素敵なことがあったのですか!
それを伺って、私も嬉しくなりました。
気分の良い朝になりました。
いつか中村様のメジャーデビューが叶いますようにお祈りしています。

Posted by 応援者 at 2018年04月15日 07:28
私のブログをお知り合いにもお薦めください。

私がさまざまなところに働きかけても、それは「自讃」に過ぎない。

これじゃ、人は動かない。



応援ありがとうございました。  

Posted by at 2018年04月18日 06:52
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