2017年08月11日

私が、映画・ドラマの〈評価基準〉に取り組んだ理由。

韓国ドラマをザッピングしていたら、中年女性が喧嘩をしていて、「あなたも私と同じ経験をしたら、同じ性格になっているわ」と毒づくセリフがあった。
武田鉄矢が書いた歌詞「人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから・・・」は嘘っぱちである。



私が映画・ドラマ。つまりはシナリオの〈評価基準〉に取り組んだ理由は明確に存在する。

中学時代、部活で野球をやっていたが、自分に才能がないことが漠然と分かった。その判断に〈評価基準〉は必要ない。レギュラーになれないのだから当然である。努力に価値を求める人が多いので、徒労な努力を続けていた。

高校時代、吹奏楽部でクラリネットに取り組んだ。
中学では、ピアノをやっている男の子は少ないし、楽器を身近に感じていたから、自分の将来には音楽の道もあるのかもしれないと漠然と考えていた。
だが、実際にやってみると、同級生たちと比べ指が俊敏に動かない。同じ練習量でも、習熟の度合いは遅い。

絶望と苦悶の中で、プロの演奏家とアマチュアの違いは何かを見つけようとする。
当時は言語化できなかったが、なんとなく理解した。今思えば、それが〈タイム感〉。それが私にはなかった。

私の人生の目標は、芸術家になることだった。

だが、高校の美術の授業でも、自分に才能がないことを確認する。
デッサンも油絵も、自分の作品に才能を感じない。この場合も〈評価基準〉など必要としない。ダメなものはダメ。そんな感じ。

自分の将来を見つけられない絶望の日々の中で、表現者としては才能がないが、鑑賞者としての才能があると考えた。
そして、演出者を目標に定める。

何のことはない。書いたシナリオも不出来。評価されなかったのである。



鑑賞者として重要なツールが〈評価基準〉である。

しかし、シナリオに関する〈評価基準〉は世の中に流通していない。既得権を得た権力者たちが、個別の作品について「良い・悪い」を言うだけ。

私のシナリオの師ともいえるS氏は、そんな映画・ドラマ界に嫌気がさして、アニメ専門のシナリオライターになった。

S氏と20年以上付き合ったが思うが、シナリオの〈評価基準〉について話題にしたことはない。それが、シナリオライターたちの流儀なのだろう。



時が経つと、私なりの「理想のシナリオ論」を持つようになる。
それを友人たちに偉そうに語っていたに違いない。

果たして、「シナリオを書いたから or シノプシス(あらすじ)を書いた」から読んでほしいと頼まれた。

テレビ局のプロデューサーに見せたら「よく書けていますね」と誉められた原稿も、「素人を誉めると、無駄な期待をさせるので罪である」と確信させるような内容だった。そもそも小説とシナリオの違いが分かっていない。

私は、真実を伝えることが誠実であると疑わなかったから、渡された原稿の欠点を指摘する。結果、絶交や疎遠になった。

私は無名であり、ステータスもない。したがって、私の発言は、
「あいつに、俺の作品の良さが分かるはずはない・・・」
で終わってしまう。

そのような経験が積み重なって、〈評価基準〉の重要さを感じて、取り組むようになったのである。

追記:
この原稿は、一時期、絶交していた友人が亡くなった報を受けて書いた。
彼は鈴木清純監督らが作った「美学校」で学び、有名監督とのプロデュース作品もある。しかし、残念ながら、シナリオも企画も分からなかったよう・・・。
私の映画学校の演出の先生(小津安二郎監督の弟子)は、鈴木清順監督作品を一切評価しなかった。彼は私とは異なる流派であり、私が正しい、彼が間違っているというのではなかったのかもしれぬ。
ただ、ただ、合掌である。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 🌁| Comment(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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