2017年08月08日

三谷幸喜作品を形式批評する。

形式批評とは、評価基準にしたがって、評価することである。
批評では思索批評が最良といわれるが、それは批評家の〈主観〉を誇ることである。

一方、評価では〈客観性〉が重要であり、そのために形式批評が最適である。




私がドラマとして魅力を感じないのは、グランドホテル形式。
グランドホテル形式とは、ホテルのロビーに集まったさまざまな人たちのドラマが紹介するもの。群像劇であり、それぞれのドラマは独立している。

代表的なものは以下。

・舞踏会の手帖。: 若い頃につけた舞踏会の手帖をもとに、かつての恋人たちを訪ねていく物語。

・大脱走。:第二次世界大戦で実際に起きたドイツ軍の捕虜収容所からの大脱走を再現している。


市民ケーンも、「薔薇の蕾と何か」という興味で、シーンが飛んでいくから、広義ではグランドホテル形式といえるのかもしれない。

私が好むドラマは、主人公が物語の冒頭からエンドマークまで一貫していおり、〈超目標〉がしっかりしていること。さらに、〈超目標〉の由来にも納得できる作品である。



たとえば「巨人の星」。

父親が巨人軍に拒絶された主人公が、巨人軍のエース(巨人の星)になることを目指す。〈超目標〉は明確で、〈超目標〉の由来も納得できる。

ただし、父と子の目標が「巨人の星」になることだとしても、子の〈主体性〉は脆弱である。そのことが子(星飛雄馬)のアイデンティティーを危うくする。ただし、それこそが〈葛藤〉であり、重要なドラマの要素でもある。ある意味、「巨人の星」は、壮大な「親離れ・子離れ」の物語である。

アンタゴニスト(人間関係の対立)も明確。
ライバルの花形満(タイガース)と左門豊作(ホエールズ)。同胞の伴宙太など、対照的な位置にキャラクターが存在する。

ポストモダンの評価法で〈焦燥感〉をとりあげたが、それはテレビアニメ「巨人の星」で、ピッチャーの投げた球が、打者に届く間であたかも停止したように時間が描かれること。
テレビ視聴者の野球少年たちは、そのような宙ぶらりんの状況に出会わされても、番組への興味を失わず、次の週までの時間を過ごすのである。



さまざまな考察を終えた結果、グランドホテル形式には、さらに成立する条件があると考えた。

つまり、グランドホテル形式は分類であって、条件ではない。
その条件とは、17世紀フランス古典演劇理論の評価基準を満たすことである。

17世紀フランス古典演劇理論は、すでに紹介しているが、要約すると以下になる。

1、この世界のミーメーシス(模倣・再現)。
2、過去の傑作のミーメーシス。
3、本当らしさ。
4、適合性(内的・外的)
5、驚異的。
6、単一統一性(筋・時間・場所)




「ギャラクシー街道」は、評判が芳しくない。

私もその意見たちに同意する。当初、その理由の一つがグランドホテル形式(群衆劇・群像劇)と考えた。

その後、問題は17世紀フランス古典演劇理論の条件を満たしていないことと結論した。
欠格しているのは以下。

・本当らしさ。(ファンタジー映画だから当然である)
・筋の単一統一性。主筋と副筋の関係が不明瞭。
・有効なテーマが思い当たらない。散漫である。テーマが「寂れたレストランの人間模様」だとしても、描くべきほどの価値を感じない


三谷氏の作品でグランドホテル形式は珍しくない。

たとえば「有頂天ホテル」。だが、17世紀フランス古典演劇理論にかなっているから、不評ではない。
満たしている条件以下。

・本当らしさ。(戯画化されているとしても、ホテルマン・スピリットは納得できる)
・筋の単一統一性。大晦日に向かって、ドラマが進行する。


群衆・群像劇が成立するには、17世紀フランス古典演劇理論の条件を満たすことが必須である。もし、そうでないなら、〈筋の単一統一性〉を満たさないことが致命的な欠点となる。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 🌁| Comment(0) | 公開メール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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