2017年08月07日

三谷幸喜さんへ。ドラマの評価基準。

公開メールというカテゴリーをつくって、日本のイノベーションを模索している。

イノベーションしなければならぬ理由は、ポストモダンの時代なのに、日本社会のさまざまなフェイズが、いまだにモダニズムの価値観を引きずっているからである。


私が三谷さんにメールを送ろうと思ったのは、映画・ドラマの評価基準を作成したから。

本来であれば、「作成した評価基準を満たすシナリオや小説を私が作成し、評価基準の妥当性を証明すべき」。

しかし、そのような作品を作成しても審査員たちは、モダニズムの価値観を持っているから、受賞・入選はありえないと確信する。

そこで、代案として、すでにステータスを得ている一流の作家や彼の周囲の人たちに、私の評価法を活用していただく中から、次第にポストモダンの時代に移行できればと考えた。

それしか、時代の方向を変える術はない。



以下に、ポストモダンの映画・ドラマの評価法を概説する。


【ポストモダンの映画・ドラマ評価法】

構図:主人公に関連して。

1、〈超目標〉
・超目標が魅力的であること。
・超目標の由来に納得できること。

2、〈主体性〉
・受動的な主人公に、観客は感情移入できない。

3、〈対立〉
・内的対立:葛藤
・外的対立:アンタゴニスト


構成:時間軸に関連して。

4、〈進行感〉
・テンポ感があること。

5、〈焦燥感〉
・劇空間にじりじりとした存在感があること。

6、〈喪失感〉
・劇空間に価値を感じること。




一方、この評価法の存在を認めない旧来の価値観は以下である。


【モダニズムの芸術観】

・作品は、作家のオリジナルな個性である。

→ 統一的な創作理論はありえない。


・鑑賞も、鑑賞者の個性の表現である。

したがって、思索批評こそ最良であり、評価基準による批評(形式批評)は、鑑賞者の個性を否定するもの。あってはならない。
→ フィギュアスケートや体操競技では〈形式批評〉が行われているのに、音楽のコンクール、美術のコンクールでは〈形式批評〉は行われていない。




とういうことで、メールの本文である。

はじめまして。三谷幸喜さま。

エゴ・サーチをされるようであれば、このメールがお目にとまるかもしれないと考え、書いています。



「笑いの大学」「ラジオの時間」など、三谷さんの作品をいつも楽しく鑑賞させていただいております。

とはいえ、残念ながら「ギャラクシー街道」は例外です。
ウェブには、三谷さんの奥様が女優さんだった頃は、彼女のアドバイスがあり、よかったが・・・。などとありました。

私にそのあたりの事情は分かりませんが、作品の評価の標準手法・統一理論が存在しないことが理由であると考えています。

三谷さんの作品は、ウェルメイドプレイ(上質な大衆・娯楽作品)であり、そのような作家は、希有だと思います。ニール・サイモンや、ビリー・ワイルダー、フランク・キャプラに匹敵する才能だと思います。

画家の横尾忠則さんは、「芸術家は、個人を表現することから始まり、最終的には、普遍を表現しようとする」と言っています。これは、モダニズム的な芸術論から作家の活動は始まるが、最終的には、ギリシア以来の芸術論に至る。つまりは、ポストモダンな芸術論こそが普遍的なのです。

しかし、映画・ドラマのクリエイターの場合は逆。プロデューサーや代理店のいうがままの時代を終えると、「観客に背を向けた作品」「個性を表現するための作品」を目指してしまう。

そして、観客の大部分は、「大衆を満足させるために苦心していた頃に得た作家の名声を鵜呑みにして、駄作を傑作と勘違いする」。

実名を挙げませんが、私には、何人かの監督、シナリオライターが思い浮かびます。

しかし、三谷さんは、そのような作家ではない。観客が喜ぶことを第一に創作されている。
そんなあなたを心からリスペクトしています。

ということで、私の作成したポストモダンの評価法をご活用いただければ幸いです。



ここまでが、メールの内容である。



実は、私が推奨する評価法はもうひとつあって、それは、放送大学の青山昌文教授(美学・芸術学)が提唱している17世紀フランス古典演劇理論です。

以下に、概略します。



【17世紀フランス古典演劇理論】

1、作品は、自然(この世界の本質・存在)のミーメーシス(模倣・再現)である。

2、作品は、過去の傑作の、さらにインパクトを強めたミーメーシス(模倣・再現)である。

3、作品には、本物らしさが求められる。

4、適合性。
・内的適合性とは、登場人物の性格と行動に違和感がないこと。
・外的適合性とは、観客にとって、作品の中の世界に違和感がないこと。

5、作品が、観客にとって驚異的であること。

6、単一統一性。
・筋の単一統一性。(主筋と脇筋があるのはいいが、主筋が見あたらないのはダメ)
・時の単一統一性。(「12人の怒れる男」のような厳密さは必ずしも必要ない。統一感があればよい)
・場所の単一統一性。(これも統一感があればよい。ロードムービーを否定する訳ではない)




1と2はアリストテレスの理論であり、6はフランス理論の核心である。



小津安二郎監督は弟子の吉田喜重監督に、「映画は出来事ではない。ドラマだ」と遺言しています。


私流に解釈すると、ドラマとは「登場人物たちの意志と意志のぶつかりあい」です。

しかし、世の中にはアンチドラマが多い。以下に、アンチドラマを分類します。


・作家性をアイデンティティーにした作品。

・・ジャンル。
・・マニア。
※ 俺様は作家である。俺の個性を評価してくれる人しか相手にしない。

・トレースもの。
・・歴史(叙事詩)。
・・ドキュメント。
・・原作(マンガ・小説)。
※ きちんとトレースしていればOK。

・不条理・異化効果もの。
(作家性につながる場合がほとんど)
※ 「観客が楽しむこと」なんて目的にしていない。




世の中でヒットしている作品だとしても、ドラマとして良質かどうかは分からない。
全体の半分以上と思われる「ドラマを楽しむ・感動したい観客」が満足しない作品が数多くマーケットに登場している。


以下は、昨年の大ヒット作だが、アンチドラマの作品である。

「君の名は。」:現実風景のアニメ・トレース作品。
「シン・ゴジラ」:叙事詩的作品。現実風景とゴジラのSFX映画。

私の印象では、現在リリースされている作品の3割程度はアンチドラマの作品である。

とはいえ、アンチドラマの作品だとしても、私が提出した二つの評価法から無縁ではいられない。なぜなら、二次流通、三次流通で、ドラマ的な品質が大きく影響するから。

大量宣伝が行われるのは、作品の一次リリースの時であり、その後の評判を制作者・制作関係者がコントロールすることはできない。
マスコミは「ネガティブ情報と比較情報を流通できない」からよいが、口コミでは「悪い評判」が広がっていく・・・。

逆にいえば、妻夫木主演の「ジャッジ!」のような作品は、ポストモダンの評価法を満たしているので、公開時に成績が悪くとも、ロングテール的に流通が期待できる。

音楽の世界では、リリース時にそれぼどヒットしなかったのに、いつのまにかロングテール的にブレークしているものが少なくない。
広告の効果は一時的なのである。



しかし、今はまだ、大衆が作品を理解しない状況が続いている。


たとえば、フジテレビの月9ドラマ「突然ですが、明日、結婚します」は、主人公の超目標ははっきりしていて、主体性もある。アンタゴニストは若干曖昧で、恋人になる放送局のキャスターが結婚したがらない理由は説得力を欠いていた。とはいえ、主演の西内まりあは輝いていた。共演したフランプールのヴォーカル氏も問題なし。

けれども、それを評価するようなコメンテーターは皆無であり、同作品を評価する人は未だ皆無である。

一昨年の深夜ドラマ、テレビ東京の「アオイホノオ」は、一般的な評判は高くなかったが、同業者たちの評価は高かったらしく、ATP賞も得ている。その後、出演者たちは多くの作品にキャスティングされていることも、作品が評価されたあかしともいえる。



ただし、これらの作品が二次流通されていない。
その理由は何なのだろう。

マスメディアの流通の背後で何が動いているのか、「ロングテールになる可能性が高い作品が、その機会を与えられていない」。


私にはその理由を知る術がない。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 🌁| Comment(0) | 公開メール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

ファン
 メッセージを送る
 このブログの読者になる
 更新情報をチェックする
 ブックマークする
 友達に教える
RDF Site Summary
RSS 2.0