2017年08月05日

新週刊フジテレビ批評・批評。

夏ドラマの徹底批評ということで、スポーツ新聞、週刊誌、テレビライターの三人が、最近始まったドラマについて放談していた。

おもしろいとか、おもしろくないとか、シナリオが良いとか悪いとか、それらの定義を一切しないので、印象批評でしかない。



その番組を観て私が気づいたことは、私がドラマをあまり観ていないこと。

・・・とはいえ、そのことを私は恥じない。

私はグルマン(大食漢)ではない。グルメ(美食家)である。
グルメとは、おいしい料理を食べ、そのおいしさの理由を再現でること。

ということで、私は「ポストモダンの映画・ドラマ評価法」を策定しているので、以下に紹介する。



何故、ポストモダンの「映画・ドラマ評価法」かといえば、モダニズム芸術観では、統一・標準化した「評価法」はあってはならないからである。

モダニズム芸術観は以下である。

・作品は、作家の「オリジナルな個性」の表現である。

・作家は、何ものにも縛られず、自由に表現すべき。

・作品は、過去の作品と似てないことが求められる。


〈創作〉において一番重要なのは、「作家のオリジナルな個性」。

同様に、
〈評価〉も、「鑑賞者の個性」によって行われるべきである。
統一・標準化ツールによって、「鑑賞者の個性」を縛ってはならない。


オリンピックのフィギュアスケートや体操競技では、評価基準による評価が行われているのに、音楽や人文系では、審査員の主観に委ねられたコンクールが横行している。だが、それらの審査に一切の妥当性はない。

アメリカン・アイドルの審査員・サイモン・コーウェル氏が納得のいく審査をするとしても「独断」に過ぎない。彼の審査基準を形式知にすべきなのだ。



高校時代の吹奏楽部顧問・松本成二先生の「現代文の科学的研究」という奇っ怪な現代国語の受験参考書を20年以上前に購入した。
受験参考書とは名ばかりで、東京教育大学を卒業した研究者による学会の最新動向のまとめでもあった。つまり、記号論や間テキスト論(インターテクチュアリティー)などについての記述もある。


上下2巻の中には批評文の項目があり、最高の批評は「思索批評」とあった。私が先生に学んだのは、1970年代の半ばである。表象がまだ日本に紹介されていなかったかもしれない。
先生は言語学・現代文の研究者であったがモダニストであって、ポストモダニストではない。

そして私は、「評価基準によって、批評する」という〈形式批評〉を知った。当時は教条主義と感じ、〈形式批評〉は私の心を打たなかった。

しかしその後、〈形式批評〉は私の思索の大きな柱となった。



〈批評〉は、批評家のものである。したがって、「思索批評」を最上のものとする。

表象という学問では、「作品が発信しているもの」と「鑑賞者由来のもの」を分ける。そこでは、人生論的な鑑賞が否定される。



一方、
〈評価〉は作品のものである。

〈評価基準〉を用いた〈評価〉。つまりは、〈形式批評〉こそ客観的であり、最良のものである。




「主観を愛でる」のが文芸だった。
だが、ICT技術の時代は、それさえも「客観」を目指さなければならない。

〈批評〉と〈評価〉を切り分ける作業があって、はじめて、〈客観的な〉作品の評価法が誕生する。

映画・ドラマ評価法を策定するにあたり、私は、ポストモダンと冠した。



【ポストモダンの映画・ドラマ評価法】

1. 構図・コンポジション

 1.1〈超目標〉:作品のテーマ。主人公の魅力。

 1.2〈主体性〉:主人公の魅力。感情移入の条件。

 1.3〈対立〉:ドラマの主要素
  1.3.1〈葛藤〉:主人公が主体的であることを表現する。
  1.3.2.〈アンタゴニスト〉:人間関係の対立。

2.構成・コンストラクション

 2.1〈進行感〉:観客を飽きさせない。(テンポ感)

 2.2〈焦燥感〉:ゆったりしたテンポでも魅力的。(心理的な間)

 2.3〈喪失感〉:劇空間の価値が貴重に感じられる。(失われた時)



2年以上考察した結果だから、実用度は高いと自負する。
だが、大きな問題を抱えている。それは、未だ、プロフェッショナルの多くが、「モダニズムの価値観」を持ったままであること。

したがって、このメソッドを使って構想を練り、シナリオを書いても以下のような批判を受けること。

・ありふれた企画。
・通俗的である。


しかし、一般大衆は、プロフェッショナルの〈主観〉たちが評価した作品を「面白い」とは思わない。
つまり、プロフェッショナルたちは、モダニズムに洗脳されていて、平衡感覚を失っている。

「作家であろうとする意識」が、自らを観客から遠ざける。そのような悲劇的な構造が存在する。

私は今村昌平の映画学校の出身だが、卒業制作で優秀作品として表彰された作品に同意できなかった。同じような現象は日本ばかりではなく、フランスの高等映画学院でも、リュック・ベッソンのような作風は評価されないのだとか・・・。

トリュフォーは、「ヒッチコックの映画術」という大著をなしたが、それは、作家としてのヒッチコックであって、大衆作家としてのヒッチコックではない。

私が策定した評価法が目指しているのは、「作家」的な作品ではなく、「通俗作品」「大衆向けの作品」である。



もうひとつ、17世紀フランス古典演劇理論というのがある。
この理論は、現代にあってもまったく色あせていない。21世紀の映画・ドラマの評価のために有用である。

私は原典にあたっていない。放送大学の美学・芸術学の青山昌文教授の授業を私なりにまとめのが以下である。

【17世紀フランス古典芸術理論】

1.自然(この世界の本質・存在)の模倣・再現(ミーメーシス)。
※ 芸術が表現するものは、「存在<人間(時代・民族・国家)<個人・個性」

2.過去の傑作の(さらにインパクトを強めた)模倣・再現(ミーメーシス)。

3.本当らしさ。

4.適合性
 4.1.内的適合性(登場人物と行動に整合性があること)
 4.2.外的適合性(観客にとって、作品の世界に違和感がないこと。)

5.驚異的なるもの。

6.単一統一性
 6.1.筋
 6.2.時間
 6.3.場所


※ 上記はチェックリストであって、創作の手引きにはなりにくい。一方、「ポストモダンの評価法」は、企画の原点において活用できる。



あらためて指摘するが、以下である。

・モダニズムの芸術作品の目的は、「作家のオリジナルな個性」を表現することである。

・普遍的(ギリシア〜モダニズム以前&ポストモダニズム)な芸術作品の目的は、「この世界の本質(存在)」を表現すること。




私が新・週間フジテレビ批評に指摘したいのは、形式批評によって批評を行い、ドラマの客観的な評価を行ってほしいこと。

「ポストモダンの映画・ドラマの評価法」「17世紀フランス古典演劇理論」という二つの〈評価基準〉の体系によって、夏ドラマを評価して欲しいことである。


しかし、それを実現すれば、その結果は惨憺たるものだと想像できる。〈超目標〉が存在するのは、刑事・医療ドラマのみ。
ほとんどが、ドラマであることを忘れたアンチドラマ。このチェックシートの評価外である。

そのような評価が〈客観的〉ならば、制作者たちには逃げ場はない。
結果、現状のような〈主観批評〉の番組が成立しているのだろう・・・。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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