2017年07月30日

客観的・演技評価基準(アイソレーション・システム)

私が演劇・ドラマの現場にいて最初に戸惑ったのは、「どのような演技が素晴らしいのか」その〈評価基準〉が分からなかったことである。

監督はクリエイターだから「独裁者」であってかまわない。しかし、監督の判断に妥当性がなければ、スタッフからの信頼を得られない。
その場合〈評価基準〉が必要になる。



〈評価基準〉とは、「主観的な判断」「印象的な判断」が正しいことを検証するためのツールである。

たとえば、映画の照明。
照明機材(ライト)を沢山使うと、光線は入り乱れる。専門家であっても、それがいいのか悪いのか判断できなくなる。
そんな時、照明技師は「俳優の鼻の影がふたつになっていない」という〈評価基準〉をつかって、最終チェックを行う。
これは、日活の照明技師として有名だった大西美津雄さんから現場で教えてもらったこと。



映画「四月の雪」では、舞台照明ディレクターの主人公が、照明セッティングの舞台上で手のひらを見るシーンがある。

ペ・ヨンジュン演じる主人公は「自分の手のひらの肌色が自然であること」で、色に偏りがないかを検証している。
「手のひらの肌色を確認すること」は〈評価ツール〉であり、「(自然光の中での)手のひらの肌色」は〈評価基準〉なのである。



では、〈演技〉の〈評価基準〉は何か。

だが、「演技が上手い」と感じさせることは、「演技していると、感じさせること」だから、必ずしもホメ言葉にならない。
そして、誰かをホメることは、誰かをケナすことにも繋がるから、注意しなければならない。

そのような事情から、現場では勿論、仕事終わりの居酒屋であっても、演劇論・演技論が交わされることがあっても、個別の演技の善し悪しが議論されることはない。

そんなことをしたら、殴り合いが始まってしまう。

「(良かれと思って)誰から見てもダメな演技に、ほんのちょっと演技のダメ出だし」をしたら、ケンカごしで反駁された。
個別の演技の良し悪しを発言できるのは、〈演出家〉だけ。当時の私は、助手でしかなかったので、手痛い経験をした。



数学では、誰が言っても正しい答えは正しいのだが、〈演技の評価〉ではそうはいかない。現場で、「演技の善し悪しについて発言する権利」を持つのは、演出家だけ。それも「看板俳優を除いて」に限られる。否、看板俳優以外についてさえ、なかなか難しい。
できるのは「ほめるだけ」。ダメな場合は「NGを出すだけ」なのかも・・・。というか、多くの場合は、陰口を言うだけで「OKを出す」に違いない。

私が今、〈演技法〉について書いていられるのも、現場から遠いところに居るから。私は部外者であって、批判者は「私が素人に過ぎない」と唾棄てもらってかまわない。



ある程度経験を積んだ当時、〈演技〉の善し悪しに関する私の結論は、落語界の以下の箴言と同じ。

「落語家に下手も上手もなかりけり 行く先々の水に合わねば」


絶対的な〈演技〉は存在しないというもの。その時の私は、演技を以下のように捉えた。

・演技過剰=臭い演技
・演技過小=素人な演技


あるべきは〈適度な演技量〉。人工的な部分をどこまでやるか、その塩梅が肝心。



だが、「素人な演技」と「素朴派の演技」は違うような気がする。

〈演技〉は「量」ではない。
〈演技〉の「質」こそが重要。



演技レッスンでは、「心理至上的」なアプローチが主流である。
演技レッスンとは、映画・ドラマの制作現場ではないという意味である。

たが、現場で演技レッスンが行われることは、通常はありえない。なぜなら、スタッフを待たせることになるし、高いスタジオ費を徒費するから。

つまり、監督は俳優たちに「演技指導をする」と思われているが、撮影現場では、そんなことは行われていない。
監督は「演技の指示を行う」のであって、(新人俳優や素人役者を使う場合を除いて)「演技を上手にするため」のアドバイスはしない。

溝口健二監督が、撮影現場で俳優たちに「反射してください」としか言わず、「どうしたらよいのですか?」と反駁されると、「それはあなたたちの仕事。私の仕事ではありません。そのために沢山お金を貰っているでしょう」と答えたのは有名な話だ。

溝口監督は「演技の審査員」であって、「演技の教育者」ではない。




一方、演劇舞台での稽古では、演出家は「演技の審査員」であるとともに「演技の教育者」。
演出家のタイプにもよるが、「ダメだし」をするだけでない。演技へのアプローチをアドバイスすることもある。
稽古場で過ごす時間が多いので、試行錯誤する余裕がある。



ミュージカル「コーラスライン」では、プエルトリコ人の生徒が、演技の教師に「雪を感じて」と言われて、感じることができずに憤慨するという曲がある。その教師にとって〈演技〉とは、演技者が「演じるキャラクターの心」になりきることである。

だが、私に言わせると以下になる。

・「演劇の感動」が起きる場所=
           × 「演技者の心」
           ○ 「観客の心」


〈感動〉は、「演技者の生理」に依存するのではなく、「観客の生理」に依存する。

「コーラスライン」の曲の最後では、「演技の教師が死んだとき、悲しくなかった」と生徒は告白する。そして、「人が死んでも悲しくない自分には、演技する資格がないのかもしれない」と自問自答する。だが、「自分を否定した」演技教師が亡くなって、悲しくないのは当然である。

このシーンの背景には、アクターズスタジオ流の「演技者の心理至上的な演技術」に対する批判があったのかもしれない。

放送大学の青山昌文教授も指摘しているが、「没入なりきり型」の演技はダメである。俳優には、「演技している自分」を客観的に見ている、「もう一人の自分」が存在しなければならない。



有名指揮者の言葉に以下がある。

・観客と演奏者と指揮者のすべてが感動するのが、三流の音楽。
・観客と演奏者が感動し、指揮者が冷静でいるのが、二流の音楽。
・観客が感動し、演奏者と指揮者が冷静でいるのが、一流の音楽。


この音楽理論は、演劇にも適用すべき。
こんなのもある。

・音楽は、演奏者と観客の間にある。

「音楽の感動は、演奏者と観客のコミュニケーションである」との意味だろう。



私だけの演出理論だが、演出の基本として「ヨーイドンはダメ」というのがある。

日常生活でテーブルの上に置かれたコーヒーを飲むとき、以下のことが同時に行われる。

・テーブル上のコーヒーを確認する。
・コーヒーカップに手を伸ばす。
・飲みたいなと思う。

しかし、3つのことが「同時に行われる」と、〈観客〉はそれを認識できない。
したがって、3つのことを順番に演技すると、整理された動作となり、〈観客〉にとって心地良い。

1、テーブル上のコーヒーを確認する。
2、コーヒーを飲みたいなという表情をする。
3、コーヒーカップに手を伸ばす。

このような演技の整理は、「心理至上的な演技論」では価値を求めることができない。現実と劇空間は違うのである。

勿論、「コーヒーを飲みたい」という〈感情〉を表現したくないなら、「演技の整理」など必要ない。



「役になりきる」ために資料を読み込んだとしても、そのキャラクターの日常的な動作は、役と無関係な場合が多い。
コンビニに向かって歩く動作に「役」は関係ない。



そして、数年前。
菊池成孔氏の著作からダンスの本に出会う。そして、甥っ子が大学のダンス部の部長をやっていることを知り、ダンスには〈アイソレーション・トレーニング〉があるのを知る。

それを演劇に援用して、〈気持ち〉〈セリフ〉〈動作〉をアイソレーション(孤立的な制御、同時並行分散処理)して処理することができるのが「理想の演技」だと確信した。


その理論からすると、〈気持ち〉〈セリフ〉〈動作〉が「ヨーイドン(同時スタート)」はありえないと確信する。
その理由は、感覚器官(耳など)、頭脳・心、動作器官(口・手足)などが神経経路を使って情報を相互に伝達しながら、行動しているから。

以下に図説する。

05_engi.jpg


もし「ヨーイドン」しているなら、あらかじめ「事が起きることを知っている」ことになる。そんなことができるのは、「神」だけ。
したがって、それは「観客にとっての違和感」につながる。

「ヨーイドン」が許されるのは、朗読だけ。
朗読では、「気持ち」と「セリフ」が同時進行しても違和感はない。

近年の吉永小百合氏の演技がマズいのは、「朗読と演技を混同している」からであろう。彼女は、ヒロシマに関連した朗読活動が有名である。



極論をいえば、「気持ち」「セリフ」「動作」がすこしでもズレていれば、観客に〈違和感〉はない。

「良い演技」とは、「気持ち・セリフ・動作をシンクロさせないこと」。「リレーのようにつなぐこと」である。



〈演技〉を俳優の生理のままに行ってよいかといえば、そうではない。観客の生理にとって違和感のないように、俳優は〈演技〉を調整しなければならない。

主演ばかりをやってきた俳優は、それを理解しない。
もし、彼が脇役を演じていれば、たとえ「生理に従った演技」であっても、「もったいぶった間」として、演出者からテンポアップを指示される。そんな経験がないから、「心理至上主義」になってしまう。



芯になる俳優。主演者。
アンサンブルの俳優。脇役。端役。
それぞれの〈演技〉がある。

それぞれの役で、「人間の生理が異なる」ことはありえない。
だが、「観客の生理」では、(感情移入している)主演者、(感情移入の対象ではない)脇役、それ以外の端役で、受け取り方が異なる。



演技の評価基準に関する暗黙知の形式知化を試みた。

だが、業界人の暗黙知は標準化されていないから、私の形式知(テキスト&図)が、吟味もされずに世の中から承認されることはない。

ただし、俳優修行している若者たちが気づかなければならないのは、以下。

青山昌文教授(放送大学)曰く、アクターズ・スタジオ流の「没入・なりきり型演技」はすでに否定されている。あるべきは「典型表現型」。

私には、青山教授の言う「典型表現型」には、「カタを重視する」という意味が強すぎて違和感がある。
あるべき演技とは、「演じている自分(主観)」を客観的に見ていること。そして、心と身体の各部分が、「同時並行分散的に処理される」こと。
そこで私は、「同時並行分散処理型」の演技としたい。

つまり、

「没入・なりきり型」演技 vs. 「同時並行分散処理型」演技


である。



私は、素人をつかった撮影をしたことがあるが、「いたたまれない表情」ができない演技者に対して、「梅干し酸っぱい」という表情をしてくださいと指示したことがある。

言われた女性は訳が分からないが、「梅干し酸っぱい」という表情をする。それをモニター画面を通じて観ていたクライアントたちは、「演技とはそんなものか」と驚いた。

〈演劇の感動〉は俳優の中ではなく、観客の中で発生するのである。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | 形式知化宣言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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