2017年07月17日

小栗旬氏にメールを送ろうと思うが・・・。

小栗旬氏にメールを打とうと思っている。
とはいえ、これでは少し長いので、少し短くして・・・・。




ダウンタウンさんの番組について。

はじめてメールします。
ブロガーのスポンタ中村といいます。

小栗さんが、テレビについて危機感を持っていることを番組で表明されていたのを知り、出演する立場として、勇気のある発言だなと感心しました。
そして、あなたの名前で検索をかけて、あなたが一般の人に向けてアドレスを持っていることを知り、すばらしいと感じました。

さて、本題です。



番組では、松本さんの「最近のテレビには〈制約〉が多く、やりたいことができない」ことが、最近の番組がおもしろくないことの原因であるという結論・総意だったと思います。

しかし、私が思う「最近のテレビ(特に、テレビドラマ)が面白くない原因」は、「面白いドラマの条件」についての〈情報共有〉が、「編成、企画、制作、出演者(そして、観客、スポンサー)の間で出来ていない」からだと確信しています。

つまり、「現場の松本さんがおもしろい」と思った番組を「観客の大部分がおもしろい」と思うとは限らない。



実は、この問題の根っこは深いのです。



蜷川幸雄さんにインタビューしたこともある青山昌文教授(放送大学・美学芸術学)の理論はそれに関連しています。

青山教授は、モダニズム芸術観とミーメーシス芸術観というふたつの芸術観を紹介しています。

モダニズム芸術観とは、「芸術作品は、作家のオリジナルの個性の表現であって、過去の作家を模倣することはあってはならない」「芸術は進化する」というもの。
この芸術観の歴史はせいぜい200年ほど。

一方のミーメーシス芸術観は、「芸術作品は、自然の模倣であり、過去の作家の作品の模倣である」。ミーメーシスとは、「過去の作品を、さらにインバクトを強化して模倣・再現すること」。
この芸術観は、アリストテレスに始まり、ディドロでさらに強化された。つまりは、人類の知性が始まって以来の普遍的な芸術観。



この二つの芸術観があれば、「こどもがデタラメに描いた下手くそな絵」と「ピカソの作品」が似ていたとしても、まったく異なることが定義できます。

幼児絵画教室などで、「自由に描かせる」というのは、モダニズム芸術観から。一方、狩野派の修行では、手本を模写することが専らだった。

私は「マチスやシャガールが素晴らしい」と言う人がいると、「レンブラントも知らないで、何をバカな・・・」と心の中で叫んでいました。



芸術作品の目的は「個性を表現すること」ではなく、「この世界の本質を表現すること」。
そう言ってしまえば、モダニズム芸術観とミーメーシス芸術観のどちらが妥当性が高いかは、自ずと知れてくると思います。




青山教授は、「個人主義が自然破壊を生んでいること」を世界が批判している今、モダニズムの時代は終わっている。芸術もミーメーシス芸術観の時代に戻るべきだと指摘しています。



映画・ドラマの企画・制作で起きているのは、クリエイターたちの自意識過剰が、モダニズム芸術観によって増幅され、過去の作品が否定されること。
その結果、先輩から後輩へのノウハウの伝承が上手くいっていない。
その潮流を、かつての撮影所システムが崩壊したことが助長している。


映画・ドラマに関する専門教育も「作家主義」的なものが殆どで、大衆娯楽・芸能としての価値を捨象している。


私は、今村昌平の映画学校の卒業生です。
演出の授業には今村校長の授業もありましたが、松竹の大場秀雄監督(「君の名は」)や井上和男監督(小津安二郎監督の弟子)など、プログラムピクチャー系の演出家でした。とはいえ、卒業制作の評価で「(左翼主義的な)作家主義」の作品が評価されていたのを残念に思いました。

つまり、映画・ドラマの専門教育でも、作家主義的な教育が行われてきた。プログラムピクチャー、娯楽作品、大衆作品を教育・研究する機関・施設は日本には存在しない。

アメリカにはいくつかの専門教育機関があるようですが、アメリカ市場に適応しているとしても、日本市場を考えると様々な問題があるようです。





蜷川演出のシェイクスピア劇に出演されている小栗さんなら、ミーメーシス芸術観に対する違和感はあまりないのかもしれません。

伝統を踏まえながら、今の時代にフィットしたインパクトのある表現をする。それこそが芸術の王道であって、過去の作家のすべてを否定するのは愚かなことです。

日本のテレビ・映画に携わるクリエイターの大部分は、「オリジナルの個性」「新しさ」を重要視して、「古典に学ぶ」ことを疎かにしているし、「過去の作家の二番煎じ」と言われることをおそれている。

しかし、フランソワ・トリュフォー監督の言葉「シナリオを書くことは、過去に同じような作品があったかもしれない恐怖と戦うこと」であって、恐れてはいけないのです。



どちらにしても重要なことは、〈印象批評〉や〈主観批評〉ではなく、作品の品質を〈客観的〉に策定すること。

それからでしか、何も始まらない。




とはいえ、
妥当性のある〈評価〉をするには、その前に、適正な〈分類〉をしなければならない。

映画・ドラマといってもジャンルは一つではない。
感情移入を求める〈メロ・ドラマ〉もあれば、感情移入を拒絶する〈不条理劇〉もあるのです。叙事詩的な〈歴史劇〉もあるのです。
そのあたりをどうするか・・・。

問題は山積しています。



今のテレビ・映画は面白くない。と〈印象批評〉〈主観批評〉して終わりではなく、最大公約数的な面白さとは何か。
面白い番組が満たすべき条件は何かを定義すべきなのです。



不躾なメールで、失礼申し上げました。今後とものご活躍をお祈りもうしあげます。

                   スポンタ中村


追記:

青山教授は「没入なりきり型の演技」は間違っているとの仮説のもと、蜷川幸雄さんにインタビューしています。(放送大学の「美学芸術学」「舞台芸術への招待」に収録されています)

青山先生の問いに蜷川さんは、
「名優・平幹二朗は、泣くような高度な集中を必要とされる演技の最中でも、客席にいる私を見つけて、私の場所から、細かい演技が見えるように身体の向きを微調整した」
「ロイヤル・シェイクスピア・シアターのアラン・リックマン(映画「ダイハード」のテロリストのリーダー役や、「ハリーポッター」のスネイプ役で知られる)は、一回目の観客と二回目の観客の反応がコンマ何秒かのレベルで違っているのを気にしていた」と、日本・英国の二人の名優が、「没入なりきり型」の演技者ではないことを紹介しています。

青山先生は、スタニスラフスキーは「没入なりきり型」の演技を推奨していない。彼の著書は誤訳されたと指摘しています。

フランスの映画監督ロベール・ブレッソンは、「演技という巧妙な嘘よりも、下手な真実を選ぶ」と言って、素人俳優を使いました。
しかし、スタニスラフスキーは「俳優が、演技が嘘であることを知っているなら、演技は真実を表現することができる」と言っているのでしょう。

アクターズ・スタジオ流の「自分が役になりきるために、資料を集め、自分が演技していることを忘れてしまう」ような「没入なりきり型演技論」に妥当性はないのです。




...やっぱり、出すのよそうかなぁ。
自分が言いたい事ばっかり言っているし。
(-_-;)

posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 公開メール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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