2017年04月06日

厚顔無恥な倉本聰氏。「やすらぎの里」批判。

自らを投影したシナリオライターの主人公を石坂浩二氏が演じている。

びっくりするのは、今のテレビをダメにしたのは、テレビ局員たちであって、シナリオライターの自分はそうではないと、作中で表現しているからである。




やすらぎの里とは、テレビに貢献した人たちだけが入れる老人ホームである。
そこに、近藤正臣氏演じるテレビ局員ディレクターは、入れない。なぜならテレビをダメにした・・・。
と。

倉本氏に言わせると、テレビに貢献したのは、俳優達とシナリオライターだけとなる。



このドラマのような回顧趣味のドラマが、テレビを面白くなくしていることに、倉本氏は気がつかないのだろうか。

限られた年代しか楽しませないドラマこそ、テレビを面白くなくした原因であると、彼は自省しないのだろうか。




ドラマの進行感は、登場人物たちの対立の解消によって生まれる。
クイズ番組で、出題され視聴者が正解を想像して分からないと不安になったり、これが正解だと慢心したり、などあって、回答が出て、安堵する。そのドラマ版が、対立の解消である。
だが、この作品。まだ2回しか観ていないが、この作品には、これといった対立がない。

主人公が、過去を懐かしく思い出す。そんなシーンばかりだ。



ドラマとは、主人公の心理の中の対立(葛藤)であり、登場人物たちの対立(アンタゴニスト)であるという根本原理が、暗黙知になっているために、一般視聴者のほとんどは、巨匠・倉本聰氏のシナリオを批判できる人は皆無だろう。

叙事詩、叙情詩という分類があるが、「こんなことがありました」というのは、ドラマではない。視聴者の主体的な鑑賞を可能にする叙情詩こそがドラマである。



彼の父親は、左翼系の出版人だったと記憶するが、左翼のイデオロギーは、右左の対立がドラマを発生させた。それが昭和の風景だった。

それが、ベルリンの壁が崩壊したり、ソ連が解体すると、左翼が作ってきた二元論的な対立に、妥当性がないことに、誰もが気づいてくる。

階級闘争を演劇に取り込んだ「つかこうへい氏の演劇」が、平成の今、色あせているのに、気付いているだろうか・・・。

それが、日本のドラマの停滞の原因である。



どちらにしても、今のテレビをダメにしたのは、テレビ局員たちであって、シナリオライターではない。と作中で表現し、自己肯定するとは驚いた。

まさに厚顔無恥。こんな老醜はみたことがない。

私が批判している小沢征爾氏などにしても、自分を肯定し、他人を悪人・罪人呼ばわりするなどという非行は行っていない。
posted by スポンタ at 07:17| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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