2017年03月12日

長澤まさみ、映画で裸になるのを断る。

「山田孝之、カンヌ映画祭り」である。
しかし、山田孝之氏、登場する映画監督氏などが、あまりにカンヌ映画祭を、そして、映画を分かっていないことに、私は呆れてしまう。

山田氏は、カンヌ映画祭でパルムドールを得ることを目標に、映画づくりを始めているが、まったくもって、分かっていない。



山田氏は、プロデューサーの立場である。
作品にシナリオはなく、あるのは、イメージを共有するための「殴り書きのような画が数十枚」だけである。あとは、スタッフのそれぞれがが自由に発想してください。と言うようなことを山田氏は、発言する。

監督は困惑したのか、「とりあえず、できることをしよう」と、準備を始める。

同じ脚本でも、さまざまな演出が可能なことを、山田氏は理解していない。プロデューサーの仕事は、「スタッフを自由にすること」は間違っていないにしても、スタッフに「やらなくてよいこと」を示してあげることが必要なのである。



物語は、若い男(素人をキャスティング)と出来てしまった母(長澤まさみが出演依頼をされている)が、父を殺す。それを知った女の子(芦田愛菜)が母を殺す。という言ってみれば、「ありふれた物語」である。

「ありふれた」との意味は、物語の要約を知っただけで、登場人物の心理が理解できるからだ。「殺す」かどうかはともかくも、密通をし、父を殺した母親を、思春期の母親が殺すのことをイメージできる。

つまり、物語に対して、登場人物の心理が反射していない。設定に従属する主人公では、パルムドールは望めない。

というか、母親を殺すということは、自分のアイデンティティーを失うことである。それでもなお…。というような心理の底に、プロデューサーの山田氏も、監督も気づいていない。



そして、スタッフルームで、リハーサルが行われた。

芦田愛菜さんは、脚本を意味する画をなぞるような、「迫真の演技」をする。だが、それは、「迫真の演技」でしかなく、「演技」が本来持っている「多様性」を感じさせない。しかし、監督はそれを称賛し、プロデューサーもそれに続く。

無名塾の演出家・隆巴氏の座右の銘は、「狂気には、正気の衣も着せて歩かせなければならぬ」である。
つまり、狂気を明確に表現するには、対象物である「正気」を見せなければならない。

芦田愛菜さんは、優秀な俳優だから、形象的な演技はお手の物である。だが、そのような演技は、ハリウッド的ではあるにしても、カンヌ的といえるのだろうか…。




別の回では、映画で売れっ子の俳優・村上淳さんに、本当に首を吊ることを要求する。山田氏は、本物を追求したい。そのことで話題になりたいと…。

村上さんは、くびくくりを実演している人と会わされ、首を鍛えることを強いられる。
要求された俳優は拒むこともできず、困惑したまま、「とりあえず頑張ってみます…」と語り、その回は終了する。

さて、首つりを吊ろうとする人間の心理と、首をつっても生きていられるように首を鍛える人の心理が、まったく異なっていることに、山田氏も監督氏も気づかない。本物を追求するなら、そのような演技こそ、一番の偽物である。

ジャン・リュック・ゴダールは、「写真は真実であるならば、映画は1秒間に24枚の真実である」との言葉を遺している。
だが、そうだろうか。
私たちは、麻原教祖の空中浮揚の写真を知っている。あの写真が真実なのだろうか。写真は現実を主観的に切り取ったものでしかないし、映画もその延長線上にある。

本来、映画が追求すべきは、そのような「物理的な真実」ではなく、「心理的な真実」。そういう「心理的な真実」を求めるのがパルムドールである。




先日の回では、山田氏は、本物の映画を追求するために、長澤まさみさんに、裸になることを要求する。
いままでの日本映画では、裸になることが当然なのに、着衣のままのシーンがあると、山田氏は文句を言う。自分の作品では、そういう不自然なものにはしたくないと。

長澤さんは、「必然性があれば、脱ぎます」と最初のうちは言っていた。そして、「私は若いころは脱いでもいいと思っていたんですが、最近は、そうは思わなくなりました」と語る。そして、再度の話し合いの時に、拒絶の態度をほのめかし、自分が裸になると、作品の内容よりも、裸になったことが話題になってしまうと、最近の考えを示した。

昨年、彼女はミュージカル「シカゴ」に出演したが、芸能ジャーナリズムは、彼女の歌や芝居を評価するのではなく、きわどい衣装に関する報道に終始した。彼女が、そのように考えるのは当然のことである。

そもそも、裸になるかどうかについて、プロデューサー・監督・主演女優が会議していることが異常なのである。
主演女優を裸にすることで盛り上がっているスタッフほど、醜悪なものはない。

必然性がないからこそ、そのような会議が生まれるのである。




カンヌ映画祭は何を審査・評価するのか…。

私が確信するのは、この世界の本質や存在が表現されていることである。
これは、人間の良識を表現されているかどうかを評価するアメリカ・アカデミー賞とは対照的である。


芸術は存在を表現し、デザインは意味を表現する。

芸術には、アポロン的(この世界の本質・存在を表現する)な作品と、
ディオニュソス的(観客の感情を動かすことを目的とする)な作品がある。



意味不明な作品が、カンヌで受賞することが、たまにあるのだが、それは、二元論的な作為的なシナリオではないから。説明的な演技ではないからである。

「山田孝之カンヌ」は、次の回から、クランクインするという。
だが、シナリオも演技の種別もカンヌからは遠いところにある。

作品の出来上がりは期待できない。
もし、それがパルムドールを受賞するなら、それは「無作為の作為」ということになる。
芸術とは、作品とはそういうものだから、私はすべてを否定するものではない。


しかし、スタッフルームの理解不能な議論たちを私は許せない。

作品的には、まったく評価しないが、発言において、まったくもって正しい、芥川賞・又吉氏のほうがましである。
posted by スポンタ at 05:38| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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