2017年03月09日

娘の卒業旅行。

ニューヨークの友達のところに20日程行くという話が「ドタキャン」のような形でなくなった。
時間のある学生時代が終わってしまう。こんな自由な時間は、引退するまでないのだから、と、パリへの旅行を薦めた。


ということで、娘は現在、帰途の飛行機の中である。

私は仕事でしか海外旅行をしたことがない。とはいえ、パリには縁があり、15年以上前のこととはいえ、鮮明な記憶がある。…なので、今回、さまざまなアドバイスをした。



韓国ドラマ「食パン王・キムタック」には、パンづくり対決を目前に、数十巻にも及ぶ「パン作りの全集」を読み始める主人公に、パンの師匠の孫娘が、「そんなものを読んでいてはダメ。重要なのは次の四つ。小麦粉、イースト菌、水、塩」。

このセリフは、ことの本質を突いている。

精読よりも、速読。ということにもなる。

さらにいうと、「読解は、学問ではない」ということか。

私がパリを旅行した2000年頃は、Wikipediaがなかった。したがって、要約を縦横無尽に閲覧することによって、総合的に思索することができなかった。
しかし、Wikipediaによって、速読が可能になると、さまざまなことが見えてくる。


というか、人間が「モノを理解する」場合、対照概念・反対概念が必要だが、書物などの記述ではそれがない。
単独の記述だけで、「モノを理解する」のは難易度が高い。

つくづく思うのは、「教えてもらわなければ、分からないこと」が多いのである。
「直観的に理解できること」には、限界がある。ならば、「親は子供に教えるべき」。


勿論、宮本武蔵の「五輪の書」のように、親の言うことを鵜呑みにすべきではない。間違っているかどうかは、自分で判断せよとの補足すべきである。



今回の旅行では、ラインでのやり取りをしていたのだが、ポンピドーセンターで現代アートの作品を観た娘から、「なんとなく、アートとデザインの違いが分かってきた」と言われ、嬉しかった。

アートとは、「存在・本質・根源」の表現。
デザインとは、「意味」の表現。


さらに、パリではバロック建築とゴシック建築が見どころなのだが、娘は「それらの建築が、それらの持ち主が、自分の凄さを建築で表現している」と言ってきた。

パロックとは、「ゆがんだ真珠」という意味だが、「自分たちの凄さを表現しすぎて、アンリアル」になってしまったのが、バロックということだろう。
その意味では、ルイ王朝時代の豪華な髪型などもその類だろう。

ロココとは、その反動で、せめて、室内の中では、「ほっこりするような空間を…」な、感じだろうか。
モーツアルトは、ロココ芸術である。



ここにおいて、ル・コルビジェというフランスの建築家の「建物は住むための工場である」という言葉の意味が分かってくる。畳や障子など機能を追求してきた日本建築の延長線上では、ル・コルビジェの言葉は理解できない。勿論、狩野派の絵画や日光東照宮はバロック建築と同等だろうが、バロックは度が過ぎているから、ゆがんだ真珠なのだろう…。


オルセー美術館では、「ヌード(精神のシンボルとしての肉体)とネイクド(肉体そのもの)の違い」について、指摘した。西洋絵画の伝統では、ヌードは崇高であり、着衣は卑近なのだ。

その伝統を打ち破ったのが、マネの「草の上の昼食」である。

ポンピドーセンターでは、デュシャンの「泉」を見ることができ、オルセーでは、アングルの「泉」を見ることができた。
当然のことながら、デュシャンの「泉」は、アングルの「泉」をミーメーシス(模倣)している。
さらに、髭の描かれたモナリザを見て、その後、ルーブルで本物のモナリザを見ている。


ミーメーシス。そして、メタ鑑賞。

そういうことを、すでに知っていて、現場で「自分の感性を自由にして鑑賞できる」。こんな素晴らしいことはない。


私の場合は、ポンピドーセンターは、改修工事で入れなかったし、もし、見れていたとしても、どういうことなのかと「思案に暮れた」だけであろう。

ロマン主義とは、感情を表現すること。
パリの彫像の多くは、ムーブマン(動き)を表現している。



アポロン的か、ディオニュソス的か。
人間・存在の本質を動かすことを目的にするのか、人間の感情を動かすことを目的にするのか。
ロマン派とは、ディオニュソス的である。




よく、「自分で考えないと身につかない」などと意地悪なことを言う人がいる。

だが、人工知能の分野では、「答えあり学習」と「答えなし学習」があり、「答えあり」を「教師在り学習」という。「答えあり学習」の方が効率的なことは明らかである。

つまりは、「答えがあるのに、答えがない学習をする」のは意地悪であるとともに、不効率である。


先の記事で、〈タイム感〉に関する記事を書いたが、〈タイム感〉を習得するには、小学校低学年ぐらいまでにトレーニングすべきだから、「こどもの自主性に任せる」などと調子のよいことを言うのは、無責任である。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | スポンタと娘…。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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