2017年02月22日

厚切りジェイソン・パックン・シェリーによる欠席裁判。

フジテレビ「ボクらの時代」に、二人の外国人とハーフが鼎談していた。
ちなみに、三人とも伴侶は日本人である。



彼らは、日本社会に対する違和感を語った。
だが、それは欠席裁判であり、日本人の立場から、弁明する必要があると思う。

外人という容姿から、「英語がしゃべれる」という先入観がある。「箸が使えない」と思われ、過度に反応される。
これらの反応は、外国人に対する日本人の「素直な反応」であって、その底には、外国人に対する「不慣れ」や「あこがれ」がある。
そのような反応を続ける日本人は、「どうやってコミュニケーションしたら良いかがわからない人たち」であって、悪意はない。善意の変形したものである。もちろん、それがイジメに変容する場合もあるから、すべてを許容する訳にはいかないが・・・。



やはり、ここでも、誉めの7部、けなしの3部ではないだろうか。

つまり、彼らがタレントとして高収入をあげていられるのは、日本人が彼ら西欧人に対して、「特別な感情」を持っているからである。
その厚遇に対する感謝なくして、日本人・日本人社会を批判するのは、非礼ではないかと思う。

もちろん、彼らが、日本社会に同化しているので、今回のような素直な発言が発信されたともいえる。



日本社会のさまざまな特徴の理由は、日本がハイコンテキスト(文化的な等質性が高い)な社会だからである。

ハイコンテキストな社会では、個人は社会に身を委ねている。したがって、個人の意見は社会の意見に追随する。
つまり、個人の意見を持っていないのではない。個人が日本というコミュニティーの構成員であるなら、意見は持っている。

外のことは、父の意見。内のことは母の意見に同じなのが、基本である。



勘違いしてはいけない。
父や母と同じ意見を持てというのではない。

車を運転していない人が、助手席や後部座席から、あれこれいうべきではない。ということ。


民主主義とは、専門家の意見ではなく、素人の多数決に依る。それでよいのだろうか。
医者の仕事が専門家でない人たちの合議で決まることなど、ありえない。

自分の意見を持て。そして、その意見を社会に反映しろ。などというのは、空虚な理想である。

日本社会は、担当者が、切腹を覚悟で、本気で判断する。そして、間違ったら、自死する。

それは、主君を盲従する儒教や騎士道とは異なる。
日本の武士道では、切腹を覚悟で、お家騒動も辞さない。お家の存続のためなら、暗愚な主君を追い出す。



そもそも、個人主義というのは、コミュニティーの秩序を崩壊させようとした外部勢力が生み出した「思想兵器」である。

かつて、日本船舶振興会の笹川良一氏が「一日一善、お父さん・お母さんを大切にしよう」とCMで発言していたのは、外部勢力による日本支配に抵抗するためのものであった。

自由の反対は、不自由ではなく、身分相応である。
近代以前には、こどもは存在しなかったという。つまり、王様のこどもは、小さな王様。職人の息子は、ちいさな職人。


現代においても、金持ちのこどもは金持ち。貧乏人のこどもは貧乏人なのだから、その構造は変わっていない。
歯医者の息子が歯医者になるのは簡単だが、貧乏人の家のこどもが歯医者になるのは、難しい。とすれば、自由がいいのか、身分相応がいいのかが理解できるだろう。



西欧では、かなり前から、ハイコンテキストなコミュニティーは崩壊させられてしまって、自らの宗教を持つことができない。

一方、一般的な日本人のほとんどは、自宅に仏壇というチャペルを持つ。その目的は、ブッダというシャーマンを崇拝するためのものではなく、祖先を崇拝するというきわめて根源的な宗教である。そのような言語化されない宗教観は揺るぎない。だから、入信の儀式など必要がない。

posted by スポンタ at 13:15| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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