2017年02月19日

ドゥルーズの「シネマ」はファックである。(-_-;)

ジル・ドゥルーズの「シネマ」を読んでいる。
自らが大御所になった年代になした著作であり、思いついたことを、深く考察もせず、自分の論理に当てはめて書きなぐっている印象である。


分かりやすい部分で批判すると、溝口健二監督の伴奏音楽は、彼のオリジナルではなく、浄瑠璃のやり方の引用である。
なのに、ドゥルーズは、そのやり方が、溝口・個人の技法であるとして、論考する。

「コンテンツではなく、フレームを語りたい」ドゥルーズにとって、文化人類学的な考察は目の敵だからといって、そのような考察をしないでよいのだろうか。

「どこの国に行っても、個人は個人でしょ」と、サルトルは、レヴィ・ストロースを論破したという。近代主観主義はかっこいいが、現実とは異なっている。
どんなに独立した自己を誇っていたとしても、言語という因習から独立することはできないし、民族のモラルから逃れることはできない。
その意味で、「どこに行っても、個人は個人」などとカッコいいことを言うのは、間違っている。


そして、レヴィ・ストロースは、神話の研究に移っていった。
だが、神話の研究は、必ずしも、彼の敗北を印象づけるのではなく、新たなる敵を求めてのことだったのかもしれない。

心理学…。
エディプスコンプレックス。

私は、母親を性欲の対象として見たことはないし、ライバルとして父親を見たこともない。そして、それが、深層心理・潜在意識に存在すると言われても、困ってしまう。
両親に育てられたのではない環境で育つ人もいる訳であり、フロイトは、そのような人たちの深層心理はどうなっているのか。そのことをまず考察すべきであろう。

というか、フロイトの理論は、西洋人の神話に基づくファンタジーに過ぎぬのではないか。



ジル・ドゥルーズの学問の本質的な欠陥は、「実存主義」との関係だと思われる。

ウェブで「シネマ」評を見ていると、これは「映画の本ではなくて哲学書である」というのが多い。訳者も、そのような発言をしている。
だが、哲学とは何かについて、定義していない。これは曖昧であり、卑怯である。

私が定義するなら、哲学とは次の2項である。

1. この世界の「こと・もの」の<本質>を定義すること。
2. この世界の「こと・もの」の<存在>を定義・証明すること。


問題は、2項目である。

ギリシア哲学では、ゼウスなどが登場する神々の物語があったので、ギリシアの哲人たちは、「存在の証明」に捉われることはなかった。

だが、ニーチェによって、「神は死んだ」と言われた近代主観主義の哲学者たちは、そうはいかない。
ドイツ観念論。つまりは「認識を追求すると、存在が証明される」はずと考える学派は「存在を証明しなければならない」という使命から逃れることはできない。


そして…。



ロダンの「考える人」の彫像が重要なのは、ヨーロッパ近代において、「神に代わって、個人の思索」が、<存在>を規定すると考えたから。
つまり、「考える人」は、「新たなる神」なのである。

では、「考える」とは何か。

「考える」とは心理であり、心理は主観的だから、より普遍的なものを求めるために、「深層心理・潜在意識」を提示したのがフロイトである。
しかし、「深層心理・潜在意識」は普遍性を持つのか、必ずしも、そうではない。無意識は必ずしも普遍ではなく、民族性があると考え、<集合的無意識〉を提示したのがユングである。
そのような〈存在〉をめぐる学問に異をとなえ、心理に関して、きわめて「実用的な部分」から心理を学究したのがアドラーであろう。「嫌われる勇気」や「承認要求」は、〈存在〉とは無縁である。


その後、より普遍を求めて、チョムスキーの「生成文法」なる議論も生まれてきた。

「生成文法」とは、人間はあらかじめ文法を持っているという考え。どのような言語であっても、主語があり、述語があり、目的語があり、修飾語がある。それらは、人間本来のものであると・・・。



実存主義とは、「認識の果てに、存在が証明される」ということである。

それは、西田幾多郎の「絶対矛盾的、自己同一」と同じだが、それが、〈認識〉を通じて達成できると考えるのが、西洋近代哲学の浅薄なところではないだろうか。

西田哲学は、禅に同じなのだとすれば、「只管打坐」。つまり、思考を越えた〈修業〉によって、到達できる境地であって、思考だけで到達できる境地ではない。

その意味で、実存主義はダメなのである。



娘の卒業論文の査読官のフィードバックに関連して、娘との議論を重ねているが、その結論は、放送大学の青山昌文教授が指摘した「近代主観主義」の普遍的な妥当性の欠如である。
しかし、査読官のほとんどは「近代主観主義」の側にいて、その思想に従わないと、批判してくる。


査読官は、「ジル・ドゥルーズのシネマを読みましたか」と娘に尋ね、娘は、「読んでいません」と答える。
ここにおいて表現されるのは、「読んだ人」は「読んでない人」に優越する。
だが、そんなことはどうでもいい。

あるべきは、「ジル・ドゥルーズはシネマという著作において、○○と言っているんだが…」という問いであろう。


そして、娘の共同研究者の私は、ドゥルーズの「シネマ」を読み、そのトンデモ性に唖然とするのだ。



バーナーズリーは、コンピューターが物事を「理解する」とは、「相手にとって、最適な言い換えを提示すること」と指摘している。人間だって同様であり、「読んでいるかどうか」で、相手を鑑別するのではなく、「相手にとって最適な要約」を提示するのが、「理解している人」の務めである。

ならば、「読んでいますか?」と聞いた人は、読んではいるが、理解しているとは限らない。

さらにいうと、ウェブで要約に接することができる今、「読解は学問ではない」。つーか、読解は、翻訳にほぼほぼ等しいのであって、それは学問ではない。勿論、読解と解釈の線引きは、考慮すべきであるが…。

そのように考えると、「要約を拒絶するようなテキストを紡ぐ人」は、有職故実を誇るような人であり、糞である。
…となる。

ジル・ドゥルーズは、糞(FUCK)である。



有用な情報とは、1文に訳せるもの。そして、希望する人たちに、より詳細な情報を提示できるものであり、さらに、それぞれの読者によって、オーバーランゲージ(その人なりの解釈・言い換え)を可能にするものである。



一神教に洗脳されていない日本人ならば、「存在」を学究する必要はない。
「存在」とは、証明するも何も、あらかじめ、規定されているのだ。


posted by スポンタ at 07:23| 東京 🌁| Comment(0) | スポンタと娘…。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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