2017年02月17日

ジル・ドゥルーズ「シネマ」批判。

学者は、固有の利害関係者である。そのことを見誤ると、真実を見誤る。
言い換えると、学者の学究の目標は、最終的には「この世界の真理の解明」だが、そこにたどり着く課程で、卑近な目標を立てるのである。
 
たとえば、フロイトの心理学だが、彼は、心理という「主観的」なものを「客観的」にとらえるために、「潜在意識」に挑んでいったのである。
しかし、潜在意識さえも、主観的であるとして、ユングは、集合的無意識を提唱した。

その延長線上にあるのがレヴィ・ストロースの神話である。無意識とは潜在意識と同意であり、民族の記憶こそ神話である。

そのような学者たちの底には、「個の主観を追求していけば、存在が証明できる」というドイツ観念論があった。



哲学とは、「存在(人間&この世界が存在しているという根本的な謎)」を解明することとであって、「人間が如何に生きるべきか」などというような処世訓を得るためのものではない。



映画やドラマを真剣に考えた時期があった私は、娘の卒論に関連して、もう一度真剣に考えることができた。
そして、娘の査読官は、2006.2008年に邦訳されたジル・ドゥルーズの「シネマ」が重要な参考文献であると知る。
そして、同著をペラペラとめくっているのだが、首をかしげることばかりである。



難解な語句と言い回しを多用する著者のテキストを無批判に受け入れる人たちが日本に多いなら、日本の映画・ドラマはさらに混迷する。
そう確信する。
何故なら、同著作は、映画をネタにした哲学書であって、ご都合主義的に映画を引用しているに過ぎない。

前後半800ページ近い原稿の序文には次のような一節がある。

「偉大な映画作家たちは、幾人かの(世界的な)画家や建築家や音楽家と対照されうると私たちには思われた。しかし、そればかりではなく、私たちは彼ら幾人かの(世界的な)思想家たちとも対照させうると思われたのである。」


このテキストで気づかなければならないことは、映画作家のリファレンスの対象として、小説家・劇作家・演出家を取り上げていないこと。
気が付けば、シナリオライターがこの本の中にはいない。

わが校長・今村昌平は、映画で一番重要なものはシナリオであることをけっして疑わなかった。
だが…。

記号とイメージをツールに、映画に切り込み、哲学したいドゥルーズにとって、小説・演劇は邪魔だったのである。



近代主観主義において、標題音楽よりも絶対音楽の方が格が上であるとの考えがある。「剣の舞」や「禿げ山の一夜」は、言葉を音楽で表現しているに過ぎず、深みにかける。交響曲○番という方が上等という訳である。

だが、人間は、イメージであろうと、記号であろうと、言語化して認識するものである。
作者が標題をつけなくても、ベートーヴェンの作品には「運命」という標題がついてしまう。
では、その標題によって、交響曲第五番は汚されたのだろうか・・・。




ドゥルーズの「シネマ」は、巨匠監督たちの主観性を論じながら、そこから普遍なるものに到達しようと試みている。

だが、映画監督は、「内容(物語)によって、形式を決定する」のであって、形式から普遍を読みとることは許容するとしても、それ以上でもそれ以下でもない。

つまり、映画監督は、内容に最適な形式を選択するのであって、その形式が結果として、存在の本質を表現しているとしても、それは、内容が必然的に望んだものであり、そこに作家性を求めるのは強引であり、真実ではない。




この本を読んだ学生が形式至上主義の作品を作るなら、当然の結果として駄作になる。一時期、ワンシーンワンカットの長さを競うような監督(ソウマイシンジ)がいたが、ファックである。

私が卒業した映画学校は、大学になり、現場を経験しないアカデミズムな人たちが教授になっている。そのような人たちが一番に尊ぶのが、本著作なら、私の後輩たちは使い物にならない。



ドゥルーズは、黒沢、溝口、小津を取り上げており、日本人としてはうれしい限りだが、西欧的な影響が強い黒沢作品の解釈はともかくも、溝口や小津の解釈は首をかしげてしまう。

溝口の「近松物語」は、心中ものという日本の伝統文化があって成立しているのであって、それを理解しなければ、「近松物語」を読みとることはできない。
「近松物語」は、危険な仕事(ニトログリセリンを峠を越えて運ぶ)と知りつつも、多額な報酬に目がくらんで引き受けてしまい、結果として死にいたる事故を起こすフランス映画「恐怖の報酬」とは異なる。

唯物論では理解できないが、来世を信じている日本人にとって、心中は「愛の勝利」である。

溝口のクレーンショットにしても、私は、大和絵の伝統を見る。

ドゥルーズは、そのような物語や文化を捨象して、「見えているもの」「聴こえているもの」を純粋にとらえようとするが、そのような行為は無為である。

アグネス・チャン氏ははじめて日本に来たとき、境内に集まる鳩を見て、美味しそうと感じたという。日本人なら、そのような感覚はありえない。同様に、フランス人のドゥルーズが「シネマ」で試みたことは無為であり、それは、「映画をネタに哲学をしよう」という強引な行為でしかない。



ジル・ドゥルーズに関しては、ソーカル事件というのがあり、彼の提示した数式が疑わしいと批判されている。
フランス現代思想の大御所だからといって、「客観的」な論理を展開しているとは必ずしもいえないことは、原典にあたって、はじめて理解できる。



哲学するために、まな板の上に乗せられ、歪められた解釈が行われた作品群を悲しく思う。
映画作品が、この世界の本質を表現しているとしても、それは、ドゥルーズのような理解の先にあるのではない。
まずは、ミーメーシス理論的(すべての作品は何らかの意味で、過去の作品の模倣である)に考察すべきである。

監督とは、作品の第一の鑑賞者である。
とすれば、ドゥルーズは、第一の鑑賞者としての資格があるのか・・・。
彼は、映画を使って哲学(人間・世界の存在を証明)しようとした。そのため、映画の娯楽性を排除している。
いうまでもないが、映画は芸術に属するとしても、そのために制作されるのではない。それは、映画ばかりではなく、小説でも、絵画でも、同じである。



映画において、小説的な要素、演劇的な要素を一切捨象して、この世界の本質を追求することなど不可能であり、彼の論理・論考に一切の価値はない。

標題音楽なら、標題をひっぱがしても、音楽として成立している。たとえば、FMラジオで標題を知らぬまま音楽を鑑賞しようが、「剣の舞」と「クマバチの飛行」勘違いして鑑賞しようが、音楽作品が根本的に誤解されることはないだろう。

しかし、セリフの文言ばかりでなく、筋立てまでも、映画は文学や演劇と関わっているのだから、映画と文学・演劇は切り離しようがない。

ドゥルーズは、これは映画史ではないと断っているが、その一言で済むとは、私には思えない。
映画史ではないにしても、映画にシナリオは含まれないのだろうか。




映画にもっとも近い芸術は演劇、そして、文学である。そのことに一切ふれないドゥルーズは批判されて当然である。


そんな誰でも気づくことに気づかず、彼を批判しないアカデミズムな人たち。

彼らは、ステークホルダー(利害関係)にまみれている。


フランス現代思想はドイツ観念論を批判することによって生み出されたかと思っていたが、そうではなかった。少なくとも、ジル・ドゥルーズは自らの論考の先に、存在が証明できるとの理想を捨てきっていない。

彼はフランス人だが、昭和の人である。


posted by スポンタ at 21:36| 東京 ☀| Comment(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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