2017年02月12日

優しい国、日本。

小沢征爾氏のNHKボイコット事件、その理由は、NHKの楽団員が若手指揮者を「生意気」と思ったとか、「寝坊」の遅刻が原因とか言われている。だが、芸術家の演奏家たちが、そんな理由でボイコットするとは、どうしても考えられないでいた。

しかし、問題は、小沢氏のタイム感のなさである。
結局のところ、彼の音楽的な将来を抹殺することを良しとしなかった、NHK交響楽団の人たちが、「生意気」とか「寝坊」とかをボイコットの理由とする噂を流通させたに違いない。

そして、音楽の分からない一流有名人・文化人たちが、その尻馬に乗った…。



Wikipediaには、次のようにある。

紛争の原因[編集]

後年、1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを追ったアメリカのテレビドキュメンタリー(2007年9月にサイトウ・キネン・フェスティバルの企画として、NHKで放送された)で、小澤はこの事件の背景について「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。黙って全体を把握するのが指揮者だ。この違いに加えて僕は若造だった」との趣旨の発言で振り返っている。しかし原田三朗はこの見解を否定し、


「アメリカで育ったような小澤の音楽と、ローゼンストック以来のウィーン楽派とシュヒターのベルリン・フィル的な訓練に慣れたN響の音楽観のちがいが、紛争の原因だという見解が当時、支配的だった。楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、などという意見もつよかった。しかし、ほんとうの原因はそんな立派なことではなかった。遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった」[42]

と述べている。この時期、小澤が病気と称してN響との練習を休んだ当日、弟の幹雄の在学する早稲田大学の学生オーケストラで指揮をしている姿を目撃された事件もあり、N響の楽団員の間では小澤に対する反感と不信感が募っていった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE


だが、そうではない。流派の問題ではない。正しいか、間違っているかの問題である。

そんなことを思うのは、娘の卒論の査読者が、テンポルバートは拍の概念の中で、行われなければならぬ。と、明確に指摘したからである。
彼は、小沢氏の系列に連なる音楽家に薫陶を受けた若手の指揮者である。




醜悪なのは、以下の昭和の文化人たちのふるまいである。

社会問題に発展[編集]

この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展し、青柳正美、秋山邦晴、浅利慶太、安倍寧、有坂愛彦、一柳慧、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、梶山季之、曽野綾子、高橋義孝、武満徹、谷川俊太郎、團伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、三島由紀夫、村野藤吾、山本健吉、由起しげ子が「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し[43][44]、NHKとN響に質問書を提出すると共に、芥川也寸志・武満徹・小倉朗といった若手音楽家約10名が事件の真相調査に乗り出した[45]。小澤は活動の場を日本フィルに移し、翌1963年1月15日、日比谷公会堂における「小澤征爾の音楽を聴く会」の音楽会で指揮。三島由紀夫は『朝日新聞』1月16日付朝刊に「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて」という一文を発表し、

「日本には妙な悪習慣がある。『何を青二才が』という青年蔑視と、もう一つは『若さが最高無上の価値だ』というそのアンチテーゼ(反対命題)とである。私はそのどちらにも与しない。小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。もちろん彼も成熟しなくてはならない。今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、これはあくまで正しい戦いであっても、日本のよさもわるさも、無論理の特徴にあって、論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。その孤独の底で、彼が日本人としての本質を自覚してくれれば、日本人は亡命者(レフュジー)的な『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、彼を追ひやることは決してないだらう」

「私は彼を放逐したNHK楽団員の一人一人の胸にも、純粋な音楽への夢と理想が巣食っているだろうことを信じる。人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。日本的しがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」

と概括した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE


一流文化人であり、演劇に造詣が深い三島由紀夫にしても、タイム感を知らなかった。


日本人のやさしさが、暗黙知に現れるエピソードとして、フランスの画壇が活躍した藤田嗣二のことを指摘したい。

藤田嗣二に実際に逢ったことがある人なら、藤田が性的な少数派であったことが分かっただろう。
藤田がフランスに渡ったのは、芸術的な理由ではなく、森鴎外の後輩という陸軍軍医の高官だった、彼の父親の名誉を傷つけないための所作だったに違いない。
だが、そのことを誰も指摘しない。

男色を公言していたのは、折口信夫ぐらいかもしれない。

同性愛者(男色家)であり、高弟加藤守雄に同衾を強要しようとしたことでも知られる(未遂) 。養子の折口春洋(旧姓藤井)も家計をすべて預かり、事実上の配偶者だった。このような折口の性的指向に対して柳田國男は批判的で、折口の前で加藤に向かって「加藤君、牝鶏(おそらく鶏姦の意)になっちゃいけませんよ」と忠告した[10]こともある。なお、折口春洋の死後は、1947年から岡野弘彦が書生として同居し、死期を看取った。
「同性愛を変態だと世間では言うけれど、そんなことはない。男女の間の愛情よりも純粋だと思う。変態と考えるのは常識論にすぎない」と述べた。[11]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E5%8F%A3%E4%BF%A1%E5%A4%AB


藤田の生涯を扱った2003年大宅壮一ノンフィクション賞受賞作、近藤 史人『藤田嗣治−「異邦人」の生涯』(講談社、2002)にしても、彼が性的少数派だったことは、彼のフランスの自室に、市松人形が飾られたことで暗示しているに過ぎない。彼の性的傾向をうかがい知るのは、パリ画壇の人気モデル・キキと同棲し、恋人ではなかったというエピソードぐらい…。



日本人のやさしさが、後代の人たちが歴史的な事実を知ることを妨げている。

日本とは、そんな「優しい国」である。

posted by スポンタ at 08:40| 東京 ☀| Comment(0) | スポンタと娘…。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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