2017年01月18日

嫌われる勇気。

アドラーの本であり、ドラマのタイトルでもある。
だが、アドラーの心理学を、承認要求とか、人間の悩みは、すべて人間関係によるものであるとか、と、考えていては、本質はつかめない。



簡単にいうと、近代主観主義において、個の思索が、神に代わって、「存在」を証明する根拠となった。ドイツ観念論。または、実存主義である。

そこで、認識を突き詰めるという学者たちが生まれ、そこからフロイトが出た。
フロイトは、顕在意識の底に潜在意識があり、そこにこそ、認識の本質があると考えた。だが、そうではなかった。
ユングは、潜在意識も集団的なものであり、後天的なものであり…。

そのようにして、認識は絶対的なものではなく、存在を証明しないことが次第に明らかになってくる。

そして、アドラー。
彼の哲学は、心は、所詮、心。というもの。




そして、思うのは、何故、アドラーが日本に移入されなかったか。

そして、何故、アドラーが不慮の死を遂げたのか…。




結局のところ、日本の情報空間は、西洋社会がこしらえた「東洋人を洗脳するための義務教育の場」のようなものであって、そこは、研究の場ではない。

つまり、西欧の研究の場で、出尽くした議論の都合のよい部分だけを使って、「東洋人を洗脳する」のが、彼らがやってきたことである。

しかして、アドラーは、「近代」という洗脳にふさわしくないので、移入されなかった。ということだろう。



西部邁氏が、MXテレビで偉そうに講義をしているが、彼は、自らすすんで西洋に洗脳された輩。
何よりも、東京大学こそが、日本最大の「西洋化洗脳機関」なのである。

ジャーナリスト・左翼者・平和主義者・唯物論者なども同類である。


考えれば、分かることだが、民主主義で選ばれた人たちを深い考察もなく批判・否定すること、つまりは、反体制があることが、無批判に肯定できるはずはない。

昔、毎日新聞の編集主幹だった人が「ジャーナリストは、ゲートキーパー」だと言った。その時、私は「では、誰にやとわれた番人なのか?」との反論を口にしなかった。その理由は、その言葉の前に彼との意見の対立は目に見えていたし、私の言葉がさらなる激怒を生むことは明確だったから…。



放送大学の青山昌文教授(美学・芸術学)は、近代主観主義は終わったと宣言するが、フランス現代思想を思えば当然のことである。

先日、NHKでレヴィストロースの特集番組に出演していた中沢新一氏は、レヴィ・ストロースを誤読することで、近代主観主義のサバイバルを目論んでいる。レヴィ・ストロースの思想の本質は、文化相対主義であり、西洋文明の相対化。進化論(近代主観主義)の否定にある。



日本では、大学も含めて「義務教育的」なLearningの場であって、studyの場ではないのである。
posted by スポンタ at 07:17| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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