2016年11月14日

ディスタントリーディング(速読)と情報学。


ディスタントリーディングとは速読であり、対立概念は、クロースリーディング(精読)である。
というか、ディスタントリーディングは、クロースリーディングの反対概念だから、遠い読書ということかもしれない。
ディスタンスというのは、距離だから、遠い読書というのが、本来の訳語だろう。


人工知能学会の学会誌を読んでいるが、デジタル史料批判という論文があり、一冊一冊を精読するのではなく、まとめ読みすることが重要であるという論旨があった。

つまりは、テキストを俯瞰するのがディスタントリーディングであり、それは、インターテクチュアリティー(テキスト本体だけでなく、周辺資料からテキストの意味を把握すること)である。


その論文には、デジタル史料批判というテーマであり、それは、「歴史資料」と「非テキスト資料」を等価に扱う。つまりは、デジタルアーカイブによって、テキスト資料と画像資料などが等価に扱えるようになったのならば、それらを総合して、意味を抽出すべきということである。

デジタルアーカイブ化によって実現するのは、「細分化」と「断片化」であって、「細分化」とは、細かく切り刻んでいくこと。つまりは、今迄以上に、詳しく探求すること。

もうひとつは、「断片化」。実は、これが重要である。



論旨によると、いままで、確かな資料には、確かな情報が載っているとして扱われてきた。
だが、確かな資料のすべてが確かだとは限らない。資料の確かさと、内容の確かさを分別して考察すべき。これが断片化である。




私なりに考察する・オーバーランゲージすると、

本能寺の変は、信長公記に記述されているので、明智光秀が、信長の寝込みを奇襲したというのが、歴史として認証されている。
だが、テキストと非テキスト資料を等価に扱うならば、静かな中世の京都の夜、数千人の甲冑の兵士が行軍するなら、かなりの音になる。雨が降っていたら別だが、その音に信長たちが気づかぬはずはない。とすれば、寝込みを襲ったとは考えにくい。
一体、何か起こったのだろうか…。

坂本龍馬。
彼は、故郷の姉に、頻繁に手紙を書いている。当時、手紙を送ることは、かなりお金がかかった。ならば、竜馬が身の回りのことを伝えるために手紙を書いたというのは考えにくい。その裏に何か別の理由があったはず。というか、何故、竜馬の旅費や通信費は、どこから出てきたのか…。
姉にお金を無心したというような記述はないのは何故か…。

今迄のテキスト一辺倒の意味抽出が終わってしまえば、歴史は変わっていくに違いない。

というか、文献学的な歴史と、情報学的な歴史が分離するのが、未来かもしれない。



文化人類学的にいえば、人間は「今、起きていること」と「みんなが思っていること」が同じなら、記述などしない。

とすれば、歴史とは、根本的に「嘘」なのだ。




つまりは、ディスタントリーディングという意味において、ウィキペディアのチェーンリーディングは悪いことではない。
精読は、一つの書物に洗脳されることである。


そう思ってしまったなら、現在のアカデミズムに用はない。
posted by スポンタ at 06:32| 東京 ☀| Comment(0) | スポンタと娘…。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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