2016年09月25日

起承転結は、古い。

平成になっているのに、昭和の理論が正されないことが疑問である。

シナリオ構成論では、起承転結が基本とされる。
だが、それは、座席にくくりつけられた映画館の観客に向けての論理であって、
「早送り再生」と「チャンネル変更」のボタンがついているリモコンを持っているカウチ視聴者に、「起承転結論」は無為である。

何故なら、シナリオライターが、「起承転結論」でシナリオを構成したと豪語しても、「起」がつまらなければ、「早回し・チャンネル変更」されてしまうから…。
本では、「最後まで読まないで、批判・評論してはならない」との規範・エチケットがあるが、平成のコンテンツの鑑賞環境を考えれば、「リモコンを持った視聴者」は多数派であり、規範・エチケットも変更されるべきに違いない。

つまり、志賀直哉の小説のように、たった一つの副詞「未だ」の存在に気付かなければ、正確な読解ができないような小説は、糞なのだ。(大阪大学の現代文の入学試験問題)



私は、そのようにして、お笑い芸人の芥川賞受賞作を最後まで、読み切れなかった自分を合理化している。
腐ったリンゴを最後まで食べる必要はない。

posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 芸術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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