2016年07月25日

フランス現代思想の総括。

ちょっと考えてみた。

参考にしていただけると嬉しい。

◇     ◇     ◇

すべては、文化相対主義から、進化論という潮流から始まっている。つまり、大航海時代にはじまる「西欧列強の世界侵略」において、彼らが「心理的に傷つかない」ための〈理論武装〉として、〈近代主観主義〉が必要だった。
それは世界征服のためだけでなく、フランス革命においても効力を発生した。

カント(1724〜1804ドイツ)から始まる世界観が、〈近代主観主義〉である。
宗教の時代は「聖書」を存在の論拠にしたが、〈近代主観主義〉では「コギト(思索する個)」を存在の起点とする。それが、ドイツ観念論、実存主義などに発展して行く。
〈実存主義〉とは、「認識を突き詰めていくと、存在を証明できる」という立場。
だが、ディドロ(1713〜1784フランス)は、「私が認識しようとしまいと、ルーブル宮殿は存在するし、その美しさも存在する」と批判した。放送大学・青山昌文教授は、ディドロは〈表象論〉の先駆けであると指摘している。
神のいない時代で、最初に悩んだのがニーチェ(1844〜1900ドイツ)だろう。
ハンナ・アーレント(1906〜1975ドイツ。実存主義者ハイデッガーの門下生・不倫相手)は、アイヒマン裁判を通じて、「コギト〈独立した個〉は存在しない」と指摘する。さらに、「世界を火のなかに投じたのはアメリカ革命ではなくフランス革命であった」。「ロベスピエールは魂の葛藤、つまりルソーの引き裂かれた魂を政治の中に持ち込んだ。しかしその領域では、それは解決不可能であったため、殺人的なものとなった。」と述べる。ルソーの引き裂かれた魂とは、「エゴ(コギト)とパブリックの相克」に違いない。彼女は〈近代主観主義〉に反旗を翻している。
レヴィ・ストロース(1908〜2009フランス)は、「人間は、属している社会の文化に従っているに過ぎず、〈独立した個〉ではない」と文化人類学をはじめた。
だが、「どんな文化であっても、個人は個人だろう」と主張するサルトル(1905〜1980フランス)との論争に負け、神話の研究に迷い込む。

〈主観〉に対する疑念は、〈言葉〉に対する疑念に発展する。
そして、〈言葉〉は「存在を証明しない」という立場から、ソシュール(1857〜1913スイス)は、「ラング(言葉とは、文法や語彙によって構成される体系)とパロール(個人のメッセージ)」「シニフィアンとシニフィエ(媒体と意味)」などの2分法で言語の〈構造〉を明らかにして行く。
ラカン(1901〜1981フランス)は、父母の影響を逃れられないまま個は誕生するとし、さらに「言語は現実を語れない」「人間は言語でしか語れない」との諦観を提示する。
チョムスキー(1928〜 アメリカ)の「生成文法」とは、「人間は生まれる前に、すでに言語のもとになる構造を持っている」という考え。さらに、「マスメディアはプロバガンダのためのシステムである」と看破する。
これは、マクルーハン(1911〜1980アメリカ)の「メディアはメッセージである」に同じ。彼は、「アカデミズムは活字によって規定される」と発言し、アカデミストから非難された。(ピーター・ドラッカーの自伝より)
ロラン・バルド(1915〜1980フランス)は、「映画や小説の作品を、作者の個人的な生い立ちや意図ではなく、同時代の関連作品との"差異の体系"として読み解こう(インターテクスチュアリティー)」とした。この考えは、ディドロに同じ。
フーコー(1926〜1984フランス)は〈エピステーメー(知の枠組み)〉に注目した。「〈ディスクール(言われたもの)〉は、制度や権力と密接に結びついている。それは権力のネットワークである」と指摘している。これは、「歴史は絶対的なものではない」というニューヒストリシズムや、「作品の評価と、作者の価値を切り離すべきである」というニュークリティシズムに同じ。
ボードリヤール(1929〜2007フランス)は、「貨幣・商品も記号にすぎない」と、言語理論を経済活動に援用した。彼の思想は、画家・マグリットの作品「これはパイプではない」に重なっている。ボードリヤールの思想は、ワシャウスキー兄弟が制作した映画「マトリックス」に影響している。
さらに、デリダ(1930〜2004フランス)は脱構築論において、プラトン以前の哲学に戻れと主張する。
だが、ソーカル事件が起き、ポストモダンの学者たちは「数式を弄んでいるだけで、衒学的である」とおしなべて批判される。

ルソー(1712〜1778フランス)、ジョン・ロック(1932〜1704イギリス)、ホッブス(1588〜1679イギリス)らの社会契約・パブリックの概念は、個(エゴ)を起点とする〈近代主観主義〉によって、必要とされた論理でしかない。ハーバーマス(1929〜ドイツ)の公共圏なる考えも、「個人と国家を両立させるための論理」である。
ヘーゲル(1770〜1831ドイツ)の弁証法も、二元論によって、当該争点の重要度をかさ上げする「詐術」であり、一般的な妥当性を持たない。放送大学の青山教授は、ヘーゲルの芸術論(芸術は、古典主義からロマン主義へと進化した。)を明確に否定している。

◇     ◇     ◇

したがって、国家論的・パラサイト的な〈弥生的な精神〉の日本人ならまだしも、家父長制度的・自給自足的な〈縄文的な精神〉の日本人には、必要のない論理。

東大に入るような洗脳された人たちを除けば、近代主観主義とフランス現代思想の対立など、対岸の火事である。
理解できぬからといって、いっさいの劣等感を感じる必要はない。
posted by スポンタ at 09:20| 東京 ☁| Comment(0) | スポンタと娘…。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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