2016年07月09日

シナリオ作法の極意。

いままで、さまざまなシナリオ作法の本を読んできたが、「わかったような・わからないような感じ」がしていて、それがモヤモヤとただよっていた。

最近、娘の影響もあって、ドラマやシナリオについて真剣に考えているのだが、その結論は、いままでの「シナリオ作法の本」は、シナリオの教科書であって、大学受験シリーズの「傾向と対策」のような本ではないということだ。

さらに悪態をつくと、シナリオを書くための「長期的な修行」と「短期的な修行」が混在していて、その場に応じた「優先順位」がわからないことである。



たとえば、黒澤明監督のシナリオ制作グループがやったという登場人物の「履歴書づくり」は、設定を増やすことであって、それを元に作品をつくったら、ドラマの構造は弱くなる。

キャラクターは主役との対比で、脇の人物たちのキャラクターを決定すべきである。キャラクターを絶対的に設定する「履歴書」という作業は効果的ではない。逆にいえば、ドラマの中で、キャラクターは固まっていくのであって、あらかじめキャラクターが強固に存在し、その上でドラマをつくっていくのは効率的ではない。

「コミュニケーションは相手が決める」という俗諺があるが、実際の人間関係は相対的に動いており、絶対的なものではない。ならば、「この人は、こういう人」と決め手から、ドラマづくりに入るのは、回り道である。

そもそも、設定の多いドラマは、魅力的ではない。暗喩としての設定は必要かもしれないが、暗喩ばかり追ったストーリーは、「ニュアンスを追った歌唱」のようなもので、本質的な魅力に乏しい。

つまり、

人物設定→ドラマ
ではなく、
ドラマ→人物設定

なのだ。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | 芸術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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