2016年05月18日

教育者のだめさ。

映像制作に関する放送大学の講義を観ているが、教育者のダメさ、理論家のダメさを痛感する。

理論は理論であり、創作には創作の事情がある。
できあがったものを理論に当てはめるのが、理論家の仕事ではあるが、創作者は、理論を気にしながら創作をしているのではない。


これは、重要である。



定期演奏会場のロビイで、「娘に、ジャズ理論を教えます」と言ったら、ジャズの先生が「重要なのは耳」と即答されたのを痛烈に覚えている。

ジャズを演奏するには、ジャズ理論を勉強することが不可欠だと考えていた私は、とても驚いた。
しかし、少し考えると、こう思った。

先生は、「理論を満たしている」だけの「魅力のないジャズ」を、若い人たちが演奏していることに、嫌気がさしているに違いない。




さて、放送大学の映像制作の講義である。

イマジナリーライン、画面のサイズ・ポジションなどについて解説される。だが、本に書いてあることであって、「これから映像制作をしよう」という人にはまったく役に立たない。

つまり、なぜ、イマジナリーライン、画面のサイズ・ポジションという概念が必要であり、なぜ、現場でその選択をしたかが、提示されない。

批判だけでは嫌なので、明示する。



映像制作で重要なのは以下。

・ショットのテーマは何か。
・何を写すか。何を写さないか。(監督は何を撮るかを考え、フレームの中心を気にするが、カメラマンは、フレームの際を見続ける)
・カットとカットの接着力は、カットとカットの「絵柄の違い」に従う。
・カットの必要時間は、認識時間に従う。(人間or男orサラリーマンでは、同じ被写体でも、認識時間が異なり、サイズも異なる)
・目線に違和感を感じるかどうか…。もし、違和感があるなら、イマジナリーラインを気にするとよい。




ドライヤー監督が「裁かれるジャンヌ」でローアングルを選択したのは、処刑台を市民たちは「見上げる」からであろう。
小津監督がローポジションを多用したのは、「映画館のスクリーンと客席の位置を考えたから」ではないかと言われる。



なぜ、カットを割り、ヒキ&ヨリの2カットにしたのか。
なぜ、フィックス(固定)ではなく、パンやズームを使ったのか。
それこそが重要である。


したがって、類似性の高いサイズ・ボジションにすべきではないし、パンをするなら、それなりのパンの距離(パンしろ)が必要だし、ズームもズームの距離(ズームしろ)が必要。



噴飯ものなのは、アシスタントの女の子が撮影した課題を、「なかなかいいですね」と、誉めるところ。
前後のカットのサイズの違いは中途半端であり、パン頭とパン尻の絵柄の説得力はないし、パンの動きもメリハリがない。2ショットの対話のシーンも、1ショットが同ポジションであり…。

というか、撮影風景を撮影したショットが、とてもプロフェッショナルのものとは思えない品質(中途半端なフレーミング・中途半端な移動・レベルも来ていない)というのが、放送大学のレベルを語っている。
三脚で水準をあわせたとしても、カメラが被写体の正面になければ、水平には感じられない。




だめ押しをするのが、インタビューに答えるカメラマン氏が、撮影で一番大切なものが「挑戦」とスケッチブックに書くこと。彼は、長回しを話題にする。

カメラマンにとって重要なことは、「自らの存在を誇示するような」挑戦ではなく、「自らの存在を消す」ような自然なフレーミングをすることである。ニーチェは、「作品を制作することは、作品から自分の手の痕跡を消すこと」と指摘しているが、そういうことだと思う。

私が若い頃、ワンシーンワンカットの長さに挑戦する映画監督が少なくなかった。しかし、そのような自己満足を追求した監督たちが、名を残していないことは明らかである。

…相米監督のことである。

アンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」の冒頭のワンシーン・ワンカットは、技法に囚われた感じがしないが、相米監督のワンシーン・ワンカットは、俳優を豆粒のように見せた。私はクローズアップが欲しくなったのを覚えている。
posted by スポンタ at 07:03| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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