2016年05月16日

演出家の仕事のひとつは、名優を輩出することである。

とすれば、何故、藤原竜也はダメなのか。ということになる。もし、彼がダメなのだとしたら、蜷川幸雄氏がダメということだろう。



放送大学の青山昌文教授が、蜷川幸雄氏にインタビューし、「没入・なりきり型」の演技論・演技術に妥当性がないことを援用していた。

蜷川氏は、自分が観劇した時、「優秀な俳優は演出家の自分が来た事」が分かっていると告白し、そのことで、演出家の彼は、「俳優が、自分の仕事をしないで、私のことを気にしている」と、トガめたりしない。

俳優は、演出家が座った席がわかると、彼に一番見やすいように、(ラブシーンの)演技の角度を調整したとか。



青山教授が繰り返し主張するのは、「何度も同じ演技を強いられる」舞台演技では、「没入・なりきり型」の演技は、「高い品質」を維持できない。
理想は「典型表現型」。つまり、俳優が、「役・演技を別人の行動」として把握して、演技することである。


青山教授は、近代主観主義の否定してやまないが、「没入・なりきり型」の演技が流行したのは、「フロイトから始まる心理至上主義」の弊害であろう。
そのあと、ソ連の崩壊により、唯物論的歴史観・進化論が否定され、フランス現代思想においても、主観主義が否定される。

問題は、それだけで、「現代思想で否定された」ものが、周辺の学問に波及していかないこと。



娘は、大学で表象論の授業を受けたが、表象論とは名ばかりの、教授が好きな文学作品の講義だった。そのようにして、一時期、吹き荒れた「表象学」の潮流は、ほぼ壊滅状態にある。

私は、その理由を、蓮見重彦氏にあげる。結局のところ、彼が「自らの主観」を誇るために、難解さをもって提出した「表象」なる学問が、その難解さを持って、普及・波及が妨げられたのである。

表象とは、「あなたがどう感じるか」ではなく、「何がしめされているか」を重要と考えよう。という姿勢であって、「どう感じるか」によって、「鑑賞者である自分」が鑑別されるような状況は不健全である。ということ。


エリート意識丸出しの人生を歩んだ蓮見氏は、「表象学」を「自らの知性を顕示するためのツール」として扱ったのであって、本来の「表象学」とは異なる立場だ。

問題は、「送り手」が優越する時代は終わったということ。

*

俳優の演技は、「受け手」である観客の中で完結するのである。問題なのは、「何が演技されたか」であって、「(演技している時、)俳優がどういう気持ちだったか」ではない。

青山教授は、表象文化論が専門でもあり、「演技術で、俳優の心理に起因する演技が否定されなければならない」のは、「表象学」の延長線上のできごとである。



演技は、「かたちから入るか」、「気持ちから入るか」というのは、よく言われることだが、最終的には、「気持ちなど、どうであってもかまわない」と、
蜷川幸雄氏のような「立場を確立した人」は、公言すべきなのである。

つまり、生半可な俳優や、演出家が、「俳優の気持ちなど、どうでもよい」と言ったら、非難があつまり、失脚する可能性もあるのだから…。



結論をいえば、藤原竜也氏は、秩父出身の「純朴な青年」であって、蜷川さんの言うことを、そのままやっていたに過ぎぬのだろう。
一方の吉田鋼太郎氏は、上智大学で演劇を始めて、出口氏のシェイクスピアカンパニーを経て、蜷川氏と出会っているのだから、比べものにならない。

つか、ヒゾッコがダメ。というのが、蜷川氏の、いい加減なところ。結局のところ、彼は、俳優たちに君臨したのであって、俳優の自発性を持って、品質の高い演技を創造したのではない。ということかもしれぬ。

少なくとも、新人俳優たちに関しては…。

posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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