2016年05月14日

昭和の巨匠たちが、死ぬ前にすべきこと。

昭和の巨匠たちが亡くなっていくが、彼らのほとんどが、死ぬ前にすべきことをしていないと、私は感じている。

彼らが、自己批判しないで、逝ってしまうので、世の中は、昭和のまま、宙ぶらりんである。



蜷川幸雄氏についていえば、心理主義的な演技術が「田舎芝居」の是正には効果的であっても、「メソッド演技が、最終的に目指すもの」ではないことを、彼の名声たる立場から是正すべきであった。

*

小沢征爾氏についていえば(存命中なので可能だが、)、自分は「感情的な時間感覚(カイロス)」しかもたない。タイム感がない。と、告白し、これから世界を目指す若い人たちに「タイム感の重要性」を指摘すべきである。

*

秋吉敏子氏についても、自分は世界的な名声を得ているが、それは、日本風というエキソシズムが理由であって、私はグルーヴしていないと、告白すべき。

*

大島渚氏、野坂昭如氏は、すでに他界されているが、左翼的な思想に操られた人生だったと述懐すべきだった。
山本夏彦氏は「平和な時の平和論」と指摘していたが、最近、理解できるのは、「平和論」も「戦争へ導くためのツール」のひとつ。つまり、「平和論」とは、「戦争or平和」という対立軸の、社会的重要度を挙げるための、ステップであるということだ。

なんと、戦死者は、「悪魔教の生贄」としての価値を持つ。これが事実である。

*

児玉ヨシオ氏のWikipediaには、自分がCIAの工作員だったことが明らかにされているが、死後、明らかになることは多い。

私は、生前の高倉健氏をリスペクトしていたが、死後、さまざまな雑誌報道で明らかになったのは、彼が「英雄化された自分」を楽しんでいた様子であった。
生きている時に、「虚像」に悩まされつづけた美空ひばり氏とは、大きな違いである。



つかこうへい氏は、「お恥ずかしいばかりの人生でした」との言葉を残して亡くなっている。
彼は、自分の戯曲が、左翼思想がねつ造した階級社会をもとに、ドラマを構成していたことを、うすうす感じていたのかもしれない。
昭和が終わってみると、つか氏の作品は色あせて見える。
それが、チェホフとの違い…。



わが校長、今村昌平氏は、かつて自分が「北朝鮮礼賛の映画(にあんちゃん)」を作ってしまったことを自嘲していた。
ま、許せるか…。

posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

ファン
 メッセージを送る
 このブログの読者になる
 更新情報をチェックする
 ブックマークする
 友達に教える
RDF Site Summary
RSS 2.0