2016年05月09日

【ジャズ初心者の若い人たちへのメッセージ。】

ジャズは、「聴けばよい」。何度も、そうすれば、自分が好きなジャズが見つかる。ジャズヴォーカルの魅力は、「声の魅力」…。
(FM東京のゴールデンウィークのジャズの特別番組にて)


との発言があった。

素直でもっともらしい発言。とはいえ、それでよいのだろうか…。



私の娘は、ジャズのワークショップに中学生の頃から通っていて、高校生になった時、指導をしてくれたドラムの二人の先生が、コンサートで、ドラムだけのデュエットで、メロディーもないのに、息があった演奏をしたので感動した。

そこで私は、提示されたテーマの「メロディーとコード進行」が、先生たちの頭で鳴っていて、共有されているから、「息があった演奏」ができる。と、説明すると、「そんなことは、知らなかった」と言われ、びっくりした。

説明のあと、フルートの名曲・ジュナンの「ベニスの謝肉祭変奏曲」や、モーツアルトの「きらきら星変奏曲」を聴かせて、アドリブとは「自由に」という意味だが、インプロビゼーションとは「改革する」という意味であり、ジャズというのは、テーマのメロディー・コード進行・メロディー・リズムなどを改革していくことだと、付け加えた。

これが、ジャズの本質であり、中川ヨウ氏がいうような「ジャズは、ある時期のニューオリンズにルーツを持った音楽」ではなく、原信夫氏が言う「ジャズは、(新しいことへの)挑戦である」。

さらにいえば、ジャズで一番重要なことは、「スウィング」であるなら、スウィングを、「門外漢の人たち」のために説明すべき。

スウィング(グルーヴ)とは、メンバー同士のタイム(メトロノーム)の共有を前提に、各メンバーが、自分の音だしをタイムから微妙にずらすこと。
つまり、クラッシック音楽のように、他人の音だしにタイミングを合わせる(アンサンブル)したのでは、コール&レスポンスできない。


この理屈は、コンピュータ音楽のグルーヴ・クオンタイズという技術を知れば・体験すれば、当然のことであって、グルーヴは、もはや神秘的なものではない。

*

娘の大学の知り合いが、卒論でグルーヴを扱っているのを知った。卒論の概要を読んだが、彼は、「グルーヴが揺らぎである」とは理解しているよう。「発振器をつかって、グルーヴな音」をこしらえたという。

ファイルの関係で、私はその音響を聴いていていないが、グルーヴは「音質」の現象ではなく、「律動」の現象である。つまり、「拍」のないとこで、グルーヴは発生しない。

指導教官は、シンセサイザーなどの専門家だというが、音楽と音響の違いも分かっていないので、娘は一切関わっていない。世の中のグルーヴへの理解など、そんなもののようだ。

(意見の違う教授の授業・ゼミを取ると、好成績は望めない。真剣に授業や研究に取り組めば、取り組むほど、バカを見る。そんな経験が娘の1年春学期にあり、娘の興味は音楽にあるが、学部唯一の音楽系教授の授業とは無縁になった…)



グルーヴがジャズの重要な要素だとすれば、

上原ひろみ氏のピアノをクラッシック的という形容をすべきではなく、「ノングルーヴ系のジャズ」。

同様に、秋吉敏子氏のピアノも「日本風のジャズ」と形容すべきである。
彼女がアメリカで評価されたのは、エギゾシズム。彼女の演奏には、ジャズで一番重要な「グルーヴ」がない。


彼女は、ある有名なピアニストを目標にしていたら、「彼の物まね」と言われるようになったと、不満を言う。
子細は分からないが、私には、「グルーヴしていないから、表面的なマネ」と思われたに違いないと、推測する。



初心者には、グルーヴ(スウィング)しているのかどうかは、判断できない。
ならば、「(グルーヴしていないジャズは)本流のジャズではないから、初心者にはおすすめできない」と、ジャズの愛好者なら、後輩たちのために、解説すべき。




学生時代、代々木のジャズ喫茶や、新宿PIT INNで、中指でテーブルを叩きながらジャズを聴いていたが、そんなことをする人が、今存在するのだろうか…。

ダンス音楽が踊る音楽なら、ジャズは、「カウントとの微妙な乖離」を楽しむ音楽かもしれない。



FM番組のゲスト氏は、ジャズヴォーカルの魅力は、「声」と言った。だが、その理由は、ジャズヴォーカルでは、「コードを感じさせること」。つまり、ハーモニー感があることが求められるから。

ハーモニー感とは、単音でドを鳴らしても、ドミソの和音が鳴っていると感じられるようにならなければならない。そういう声の(整数倍の)倍音構成がジャズには求められる。


演歌の瀬川瑛子さんや、チャゲアスの飛鳥さんがねばった発声法をするのは、声にハーモニー感を加えるためです。
そのような、声にハーモニー感があってこそ、はじめて、シャウトに魅力が生まれる。

音程もハーモニー感があるとないとでは、感覚がまったく異なる。
それは、日本の民謡・木遣りなどの単一周波数的な発声法とはまったく異なるものであって、そのあたりの解説もしなければならない。

つまり、単一周波数的な発声法における裏声と、ジャズにおける裏声は、似ていても、まったく異なること。

スイスのヨーデルは、単一周波数的な発声法の裏声ですが、ジャズヴォーカルは、整数倍音的発声法における裏声。
したがって、高音部だけではなく、中音域でもシャウト(裏声)ができる。

だから、ハーモニー感がない人(声質の倍音構成が貧弱)が、シャウトをしても、表面的なものまねに過ぎない。

さらにいえば、ジャズヴォーカルでは、グルーヴが一番重要だが、タイム感がない人には、グルーヴできない。しかし、日本では、ジャズだけでなく、それが同様に求められるR&B系の歌手でも、それができる人は希有。



日本人の感覚では、無音のところは「無」だが、西欧人には、無音であっても、「ハーモニー・メロディー・パルス・リズムの残感覚」がある。
それは、同じ順番でCDの曲を繰り返し聴いていると、ラジオで単独で、その中の曲を聴き終わった時、次の曲の冒頭がが、幻聴のように聞こえるような現象…。


西欧人には、それが極めて重要であり、カラヤンは、普門館でのコンサートで、残響板の設置を要望した。

ジャズにおいても、強進行のドミナントモーションにしたって、ドミナントの和音が残響しているから、トニックに終止感を感じる。



日本人には幕の内を食べても、味が混ざるという文句はないが、西欧人には、それがあるらしい。だから、フランス料理では、赤ワインに肉料理であり、日本人はとりあえずビールだとか。
これは、味覚の問題であって、音楽・音響にもあるのだろう…。

カレーの福神漬けは、箸休めであって、カレーに福神漬けを混ぜて食べる人はいない。しかし、西欧人には、混ぜて食べる感覚なのかもしれない。



さまざまな事情を知っているなら、折角、ジャズに興味を持ってくれた人に、「何度も聴いてください」と言うのは、あまりに不親切である。

もし、その人が、「魅力のないジャズ」にしか出会うことができなかったら、ジャズは観客を減らすこととになる。


実際、JUJU嬢をはじめとして、ジャズの魅力を表現していない歌手・音楽家がほとんどである。
若いジャズの演奏家は、強進行を古めかしいと感じて、モード以降の曲を好む。しかし、強進行への理解がないから、モード奏法の理解も低い。

この傾向は、「調性の薄い音楽」の方が粗が目立たない。という事情も影響している。

そして、タイム感がないから、グルーヴもできない。



「不出来なジャズ」を聴いて、初心者たちが、ジャズを好きになるのだろうか…。もし、彼らがジャズを聞き続けるとしたら、それは「ジャズを聴いている自分」をかっこいいと思うような、そんな優越感であって、音楽を楽しむこととは違うような気がする。


私の娘のように、プロに指導を受けてきたのに、数年たって、はじめてジャズを知ることになるのは、幸運なタイプであって、ほとんどの人は、ジャズとは無縁な生活に戻るのであろう。



まずは、YouTubeで、ペトルチアーニの「A列車で行こう」の連打を聴いて、メロディーが鳴っていないのに、「A列車のテーマのメロディー」を感じる。そんな不思議な体験をしてもらう。

そのようにして、「ジャズの仕組み」を知ったところで、さまざまなジャズを聴いてもらう。



グルーヴにしても、ベニー・ゴルソンの「Whisper Not」のように、最初はジャストビートで始まって、インプロビゼーションしていくうちに、グルーヴを増していくような演奏を、まず知ってから、いろいろなプレイヤーのグルーヴを体験していくことが、ジャズの魅力を感じてもらうためには、効果的だ。

*

たとえば、ハービーハンコックの処女航海。この曲のジリジリした感じは、コードが進行しないから、そういう感じがする。

一方、強進行の曲は、進んでいく痛快感・爽快感がある。

そういう解説もしていいのであって、手品師が種明かしをするような類ではない。理解を深めるために必要なのだ。



格好だけ、体裁だけ、雰囲気だけの日本人女性ジャズヴォーカリストで、「これがジャズ」などと、初心者たちが勘違いしたら、若い人たちのジャズへの興味は一瞬にして無くなる。
ならば、少なくとも、ジャズに詳しい人は、エラとJUJUの何が違うのか、言葉で説明してあげるべき。




日本のジャズシーンにおいて、わたしが指摘していることを公開することが極めて難しい。なぜなら、学生ビッグバンドジャズの祭典・ヤマノコンテストで、毎年、グルーヴしていない団体が優勝しているから。

コンテストは、日本のジャズ界の重鎮ばかり。何よりも、彼らがジャズを理解していない。銀行マン出身の長老がいる限り、この状況はきっと変わらない…。

しかし、映画「セッション」の誤りを、菊池成孔氏は敢然と主張した。

ならば、たとえ成功に終わることがなくとも、無名の私のやるべきことはあるのだろう。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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