2016年05月07日

ディドロの演技論。(役になりきるはダメ)

青山昌文教授の大学院の教科書を読んでいるが、革命的なことが書いてあるので、披露しておく。はっきりいってしまえば、アクターズ・スチューディオのシステムは間違っている。ということ。

メソッド演技を簡単に説明すると、演じる役柄になるため、その役を徹底的に調査し、俳優が「その役になりきる」ことを理想とする。

しかし、それが間違っていることを、私はすでに指摘している。



俳優の生田斗真氏は、映画で太宰治を演じるについて、事前に勉強をしていったが、現場に行くと、監督から、「(そういうのは)忘れてください」と言われたという。
私が解説すれば、「太宰治は、内的問題を抱えながら、たばこ屋にタバコを買いに行く」のではないのだから…。

アクターズ・スチューディオの演技論の底には、「心理主義」がある。
つまり、フロイトなどの心理学の影響下に、演劇・演技論を構築してしまったが故に、誤謬が発生した。

青山教授の指摘では、スタニスラフスキーは、心理的な演技を理想とは考えてはおらず、形象的な演技が現実的な演技と考えていたようである。


スタニスラフスキーは「ロミオとジュリエット」を演じる俳優が、「相手にうっとりしている」と気持ちであると答えると、「それは、俳優が言うべき言葉ではない。俳優は、うっとりしていると感じさせるような仕草や行動をすべきであって、実際にうっとりしてはならない」と名言する。



私の芸術論・演技論では、「アイソレーション(孤立化)&リラクセーション(弛緩)が大切」というものだから、「気持ち」というレイヤーがあっていい。ただし、「気持ちを操る」レイヤーが不可欠である。

さらにいえば、相手役の演技に「反応・反射」するには、それらが「自由な状態・ニュートラルな状態」で自由に変化できる状態でいなければならない。それがリラクセーションである。


マービン・ミンスキーは「心の社会」という本を書いているが、ミンスキーによれば、心とは、多様な人格のコミュニティーである。スタニスラフスキーは、「心はひとつ」と考えているから、「(内的な)心」ではなく、「(外的な)表情・しぐさ・発声・動作」で表現しろと、俳優にアドバイスする。

しかし、ミンスキーの本や、多層なレイヤーという概念を持っている私は、「役を制御する」レイヤーがあるなら、「(役に)なりきる」レイヤーがあってもよい。と考える。
そして、相手役の演技に「反応・反射する」のは「(役に)なりきる」レイヤーであって、それを冷静に観察している「制御レイヤー」があればよい。
この時、「制御レイヤー」は観客の反応を見ながら、「なりきるレイヤー」の演技の程度「過剰or素朴」が最適であるかどうかを判断している。

「アイソレーション&リラクセーション」は、演技に限らず、ほとんどの芸術・パフォーマンス・コミュニケーションにおいて、重要だと思われる。



ディドロは、「没入なりきり型」は、何度も、同じシーンを演じなければならない演技において、不安定である。とし、「典型表現型」こそが、あるべき演技術であるとする。

講義において、青山教授は、蜷川幸雄氏(演出家)にインタビューし、「名優は、演技をしながらも、客席の反応を感じて、演技を微妙に調整することができる。したがって、役になりきる。没入というのは、下手な役者の場合にすぎぬ」との回答を得る。

蜷川氏は、大学演劇科のトップだったと記憶するが、彼は「学者ではなく、実務家・演出家」である。したがって、彼が、彼の大学の教員たちの指導を改善したとは、思わない。
というか、彼は芸術家であって、本来、教育者ではない。学者ではない。
したがって、青山教授に指摘を受けて尚、問題に気づいていない可能性が高い。

その意味では、アクターズ・スチューディオのリー・ストラスバーグは、教育者でしかないということか。



「気持ちから入るか」・「かたちから入るか」ということがよく言われる。
しかし、ここで気がつかなければならないのは、
「……から入る」という構文。

つまり、これは、新人・中堅・ベテラン・名優たちにとって、「演技への入り口」のことでしかない。

そのこととに気づかぬ多くの人(素人ばかりでなく、プロの演劇関係者さえも)は、最終的に行く場所が「気持ち」である、と誤解している。



下手な役者には、形ではなく、気持ちを大切にせよとアドバイスすることが、成長を促す。しかし、名優は気持ちで芝居しない。気持ちを感じさせる演技(行動)をするのである。

俳優が相手役に恋をしたり、エッチをする。そのことを推奨する芸能関係者も多い。しかし、「遊びは芸の肥やし」と同様に、芸の足しになるかどうか分からない。逆にいえば、「相手役とエッチをすることにより、恋愛をヒートダウンさせる。気持ちを落ち着ける」ことが、演技に好影響するかもしれない。



結局のところ、田舎芝居の俳優が「大げさな演技」をしているのを、「典型表現・他者表現」として、それに対比して、「心理的演技・没入なりきり表現」を理想と考えたに違いない。



歌舞伎は、(遠くの席からも分かりやすい)大げさな演技が特徴だが、「様式化」することで、「大げさな演技」という批判を避けている。
時代物という、現代と不連続な場なので、違和感はない。クレバーな手法である。

一方、宝塚歌劇も特徴的な演技である。歌舞伎同様、高度に「様式化」されているので、宝塚ファンにとっては違和感のない演技である。



「没入」は、俳優にとって目指すべきこと。という誤りが何故生まれたのか、その理由は、近代主観主義・心理主義の影響が大きいだろう。

さらにいうと、演劇学校・演技論などが、真実(この誤り)を明かしていないので、真実の演技術は暗黙知となり、新人の参入障壁になっている。
つまり、俳優修行をして、10年以上経った頃、「心・感受性」が俳優術の本質ではない。と、気づくのである。

*

心・感受性のレッスンで優秀な反応をした新人俳優をキャスティングしたが、稽古場でで使い物にならないことが発覚し、(なってもいない)病気を理由に降板されられたケースを私は知っている。

演技のレッスンと稽古場が不連続だなんて、不都合な真実である。

*

青山教授の指摘を演劇関係者が知ったら、どうなるのか…。
もっとも、不勉強な彼らが、青山教授の本を読むことなどないだろうが。

posted by スポンタ at 12:00| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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