2016年05月03日

先輩の意地悪。

娘もはや大学4年生。
後輩たちが、娘の専門分野に関して議論したので、娘は、その浅さを指摘したという。補助講師の人は、「もっと勉強しなさい」と言ったとか。

私は娘を痛烈に批判した。



後輩たちの議論が、一面的・浅薄なら、自分の「そうでない議論」を明確に提示すべきである。

自らの見解を提示せずに、「相手を批判する」のは、意地悪である。

ましてや、「もっと勉強しなさい」などと言うのは、もっての他。
後輩たちは、後輩たちなりに、思索したに違いない。量は少ないかもしれないが、資料を集めたし、勉強もしたに違いない。勿論、生きている期間が短いのだから、それが不足しているのは、当然である。



コンピュータが、「理解している」と、人間に判断されるのは、「入力者に最適なアウトプットを出力すること」である。

したがって、後輩たちに分かるような形で、「自分の見解・勉強の成果」を伝えるべきであって、「もっと勉強しなさい」などと、抽象的なことを言うのは、理不尽である。



子細は明らかにしないが、「新しい」についての定義が曖昧だったとか。
私に言わせると、文化系においては、すべての「新しい」は出尽くしていて、組み合わせ(ハイブリッド)か、「固有名詞」的な形でしか、「新しい」は成立しない。

もしくは、場の転換、メタ視点・メタレイヤーで、新しさを印象づけることか…。



私の認識では、「現状に問題がある」としても、それは「誰か」にとっての「最適化された状態」であること。
もしくは、複合的な要素の間で、「バランスがとれている状態」または、「バランスが動いている・揺れている状態」。

ならば、「現状を批判・否定する」のではなく、「誰に対して最適化されているのか」。「何と何の間で、バランスが取られていているのか」を分析することである。


*

現実を否定して、原因を追求する。

のと、

現実を肯定して、その要因を把握する。

のでは、かなり違う。と、思う。

なぜなら、現実を否定すると、その現実の外に自分を置くことになるから。一方、現実を肯定するなら、その現実の中に自分もいる。
「外から眺めている」のと「中で体験する」のの、違いは大きい。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | スポンタと娘…。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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