2016年03月31日

町山氏 vs. 菊池成孔

一昨年の秋の出来事だったと記憶するが、ジャズドラマーの育成に関する映画「セッション」に関する論争があった。

町山氏は「セッション」を評価し、菊池氏は「セッション」をケナし、かつての映画のヒーローを演じた老優が、ブロードウェイ演劇に挑戦する映画「バードマン」を推した。



ジャズを学び、映画好きな娘が映画館に見に行き、「菊池氏が正しい」ということだったが、私は、「愚作にお金を払う気にもならず」というか、映画館で映画を観るという習慣がなくなっており、両作品を観ないまま、現在に至った。

…なのだが、最近、CATVで、両作品を観て、びっくりした。

1も2もなく、「バードマン」。




町山氏&菊池氏は、音楽観をもとに論争をしていたと記憶するが、私に言わせるなら、「リスペクトできない主人公」の作品は愚作。その一言。

主人公のドラム青年が、バディー・リッチというスポーティーなドラマーをリスペクトするところに、菊池氏は納得がいかないのは、当然のこと。
日本でも、学生ビッグバンド系の学生の書き込みに、バディー・リッチを評価する若者が少なからず存在するが、私に言わせれば、彼らは「スウィング(グルーヴ)を理解しない素人」である。

問題は、そのような人たちが「自分を玄人と思っている」こと。

ニューヨークの音楽エリート高校で学んだベーシストが、日本のジャズライブで驚いたのは、アメリカのように、「グルーヴを発生しやすいミディアムテンボ」の曲で、演奏者や観客を暖めることをせず、最初から、「速いテンポの難しい曲」を演奏すること…。

アメリカの感覚でいえば、日本の玄人は、素人同然である。または、日本の玄人は、グルーヴ(スウィング)を知らない。

菊池氏は、そのあたりを含めて、映画「セッション」を批判していたが、そのような「音楽に対する精妙さ」を持ち出さなくても、映画「セッション」は駄作・愚作である。



主人公のドラマーは、「グルーヴを理解しない指導者」にしがみつくし、自らの功利的な生き方を内省しない。
つまり、「指導者の意図のまま」に、奮闘する主人公の生き方は、「深みに欠ける」。
「巨人の星」の主人公でさえ、自分の目標が「父親の受け売りではないか」と、内省する時期があるが、そのような知性を、映画「セッション」の主人公はもちあわせてはいない。



そのような映画を愛でる町山氏は、自らが専門家であることを誇るが、彼はグルマン(多食家)であって、グルマン(美食家)ではないだろう…。




一方の映画「バードマン」は、かつてのヒーロー映画の俳優がブロードウェイ演劇に挑戦する中で、映画人と演劇人の違いや、批評家との摩擦・対立が表現される。

作品としての「深み」・「豊かさ」において、ふたつの作品の距離は大きく、議論が成立する余地はない。



結局のところ、映画評論家は映画宣伝業者でしかない。
結果、営業妨害的な行為をした菊池氏を町山氏が許さなかった。
菊池氏の発言は配慮したものだったが、その心根を町山氏がほじくり起こす。(町山氏の営業行為による、菊池氏批判だった可能性が高い…)


両作品を観る限り、「音楽観」を持ち出さないでも、作品の良否はついている。



作品を観なければ、そんな事情は分からない。ならば、映画観客は「だめな作品」を拒絶できない。

その意味で、町山・菊池論争は、弁証法的な効果をもたらし、映画関係者にとっても有意義だった。

弁証法的とは、二項対立が、「争点の重要度を上増しする」という意味である。
posted by スポンタ at 06:58| 東京 ☀| Comment(0) | 芸術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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