2016年03月13日

新宿ピットイン、50周年記念コンサートをテレビで見る。

こんなサイトがあった…。

さて、2日間にわたる半世紀の歴史を物語るイベントは、成功裏に幕を閉じた。世界でも希有な経歴の老舗ライブハウスの節目を飾るにふさわしい内容であったことに異論を挟む余地はないだろうが、あえて言おう。このイベントに、過去を振り返るために立ち止まるイメージのある“節目”という言葉は似合わない――。

 ジャズは、特定の世代や特定の時代に封じ込められるものではなく、自由に世代や時代を往き来することができる、いや、その特権を最大限に活かさなければならない“宿命”を負った音楽なのだ。

 その“宿命”に呼応する者の“たまり場”として、新宿PIT INNがこれからも機能し続けるという“未来の展望”を暗示したのがこのイベントの本意だったと、ボクは解釈している。

http://arban-mag.com/report_detail/21


昨年末に行われたコンサート。

新宿ピットインは、高校生の時に渡辺貞夫氏のライブに行った。フィル・ウッズ(昨年、逝去)のコンサートを新宿厚生年金で見た直後の午前中に、若き本田俊之氏がフィルウッズのコピイ演奏をやって、驚いたのは、懐かしい思い出である。

さて、今、ジャズはどうなっているのか…。
新宿厚生年金はもうない。だから、新宿文化センターで、コンサートが公演されたに違いない。
というか、コンサートホールを満員に出来るジャズミュージシャンが、今、何人いるのだろうか…。

ピットインというお店の危機ではなく、ジャズという音楽の危機。

だが、私は思う。

「すばらしいジャズ」を選別して、観客に提出するマッチングシステムが存在しないことが、最大の問題である。

というか、ジャズについて、理解していない人が多すぎる。


こうして新宿PIT INNは、プレイヤー側からはもとよりリスナー側からもジャズがジャズであるための“自由”に満ちた場所として意識され、日本のジャズが世界に比肩するまでの成長を遂げる“拠点”となった。そうした積み重ねの50年であり、その当事者たちが名を連ねていたのがこの「新宿 ジャズ・フェスティバル 2015」なのだ。

 ここでは、2日間の合計13セットに出演したジャズ・ミュージシャンのなかから、次代を担うという視点で勝手に選んだ“推しメン”にスポットをあてて、このイベントの未来図をあぶり出してみたい。
http://arban-mag.com/report_detail/21


そして、ジャズについて、教える人がいない。

バークリー音楽院から帰った渡辺貞夫氏が、同業者のために「音楽理論を教える会」を開いたように、
一般大衆のために、「ジャズを教える会」をやらなければならぬ。

しかし、ほとんど誰も、「ジャズが分かっていない」。


「スウィングしなければ意味がない」という言葉があるように、ジャズで一番重要な要素は、スウィング(グルーヴ)である。
収録を見ただけだが、2日間のコンサートでグルーヴしていたミュージシャンが、どれほど存在したのか。
私の見解では、せいぜいが1割程度か…。


マイルス・デイビスは、チャーリー・パーカーのように、速いフレーズが吹けなかったから、クールジャズを始めたという解釈がある。

私は、同様に、オールネット・コールマンたちがフリージャズを始めたのは、グルーヴできなかったからと思っている。



二日目の司会を勤めた女性ジャズ評論家氏は、「ある時期のニューオリンズに起源を持つ音楽」とジャズを定義している。油井正一氏の弟子筋の人だというが、ジャズを理解していない。
この人の本には、ジョンコルトレーンが引用して有名な”My fevorite things"がミュージカル「マイフェアレディー」の曲だと書いている。こんな誤植をそのままにする編集者と筆者。私は、訂正する気にもならない。

つか、通史的なジャズを紹介するのは、「知らない人」に「自分が、如何に知らないか」を宣告することであって、「評論家個人の優越性を、誇るだけ」。何の意味もない。

彼女がやるべきことは、「ジャズを一言で表現すること」である。
その点、原信夫氏(シャープ&フラッツ)は「ジャズは挑戦である」と端的に形容している。


*

私の定義では、「ジャズであるための条件」は、「進化している」もしくは「進化を希望している」音楽である。

マイルス・ディビスが「モード奏法」を始めたのも、「進化・革命」だし、ビル・エバンスが、ドミナントモーションにsus4を代用したのも、「進化・革命」である。
現在においても、日野トランペッターが、DJホンダと共演するのも、「進化・革命」である。


クラッシック音楽やバレエでは、18世紀・19世紀の作品が「昔懐かしい」という文脈ではなく、演奏されている。同様に、ジャズも「昔懐かしい」という文脈とは無縁に、デュークエリントンやビバップが演奏されていい。

アリストテレスの芸術論では、「芸術はミーメーシス(模倣)」であって、青山昌文教授に従えば、「個人のオリジナリティーを追及するのは、この200年ほどの流行に過ぎない」のであって、それは、必ずしも芸術的ではない。



まず、ジャズについて、教えなければならない。

*

ジャズでは、テーマの「メロディーとコード」、そして、「リズム」を記憶することが大切である。

モーツアルトの「キラキラ星変奏曲」やジュナンの「ベニスの謝肉祭」は、メロディーやコードを覚えなくても、鑑賞に支障はない。

しかし、ジャズでは、比較的変奏が軽度な「メロディー的な変奏」から、「和声的な変奏」になり、「音階的な変奏」へと、高度化する。このあたりが、プレイヤーの羞恥心とも相まって、「サービス精神が薄く、プライドが高い」ミュージシャンは、難解な変奏をしがちである。

このあたりの事情は、ミッシェル・ペトルチアーニの連打やトリルのインプロビゼーションを聴けば理解できるはず…。



2分14秒あたりから連打になります。

その前にテーマがアタマの中に入っていれば、連打も楽しく聴こえる。
しかし、テーマがアタマに入っていなければ、おもしろくもなんともない。

つまり、ペトルチアーニの連打をバックに、アタマの中で、テーマが鳴る。そんな現象が起きる。


変奏を聞いていても、メロディーが残響のように聞こえてくる。それがジャズの醍醐味。



グルーヴも同様で、メンバー間のタイムの共有をもとに、各メンバーが、「音出しのタイミング」を微妙にずらす。それがグルーヴ。

しかし、プロの、それも、ピットインに出演するような、日本の一流のジャズミュージシャンであっても、音出しとは別にタイム感を持つことができない。


そういう「非グルーヴ」なミュージシャンたちに、「グルーヴしていない」・「アンサンブルしている」と指摘せず、一般大衆が知らないのをいいことに、「本当に凄いジャズ」を紹介せず、「非グルーヴ」なジャズミュージシャンを出演させてきた。

それが、「日本のジャズが低迷している原因」であり、アイドルに席捲されている日本のポピュラー音楽の状況と、まったく同じである。



この特集は以下のテキストで締めくくられている。

このように、“日本の将来を担うことになる気鋭のジャズ・ミュージシャンたちのたまり場”という開業以来の精神が現在も失われることなく受け継がれていることを、これもまたメタメッセージとして仕込んでいたと感じることができたのが、この“B面”だった。


さて、本当に、そうなのだろうか…。

ピットインは、「既得権益を持った年長者」に選ばれた人たちの「たまり場」でしかなく、「明確な評価基準」でセレクトされた人たちが集まっているたまり場ではない。



私は、「グルーヴしていない」のは、ジャズではない。と、言っているのではない。

ジャズにおいて、「グルーヴしていないジャズ」は、異端でしかなく、それを本筋のように、扱ってしまうと、「ジャズ・そのものの魅力」を一般大衆が勘違いしてしまうのだ。

ここで、唯一、名前を挙げられるのは、批判にも耐えうる有名人、「あまちゃんバンド」の大友氏のみだろう…。

グルーヴが分からない人は、以下の動画を見ればいいかも…。


posted by スポンタ at 17:33| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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