2016年02月19日

小沢征爾氏、グラミー賞。

小沢征爾氏が、オペラのCDでグラミー賞だという。
私が幼い頃、私の父親は、「小沢征爾は、浪花節だ」と悪口を言っていた。だが、私には意味が分からなかった。

父はその他、「森繁久弥やフランキー堺の演技が臭い」、「○○は、自己顕示欲の固まりだ」とか、テレビを見ながら、出演者の悪口を繰り返した。



私は、私の人生のつまづきは、「親の言動が原因」であると考え、同じことを、自分の娘には「しない」ことを、心がけてきた。
バブル崩壊によって、我が家の経済が低迷すると、経済的に娘をサポートすることはできないから、「せめて、それ以外で」と考えるようになった。そして、父や母に感じた「不満・批判」を、けっして娘にはしないように心がけた。

具体的には、「理由もなく、世の中に受け入れられていること・ものを批判しないこと」。その一方で、「父の発言の理由」につき、深く考察してきた。



森繁やフランキーの演技については、次のように考えた。

演技は、「過剰な演技(悪い意味での、プロの演技。舞台の演技は、映画の演技について、概ね過剰・自然ではない。)」と「素朴な演技(素人演技)」があり、観客のポジションによって、「過剰な演技は、臭い」「素朴な演技は、下手」と感覚される。

観客のポジションとは、芝居を観に行った時、最初は、「舞台芝居に違和感がある」が、次第に違和感は薄れてゆく。そのように感覚が変わってゆくこと。
一般人には「宝塚歌劇の演技には違和感がある」が、宝塚歌劇の人気が絶大なのは、そういう理由がある。宝塚歌劇にどっぷりはまってみなければ、宝塚の魅力は分からない。

一方、デビュー当時の薬師丸裕子の素人演技が受け入れられたのも、同じ理由。と考えたが、その後、「あるがまま」がよいとする「白樺派」的な芸術感が関係していると結論した。
フランスの映画監督ロベール・ブレッソンが「演技は巧妙な嘘である。私は、巧妙な嘘よりも、下手な真実を選ぶ」と言い、素人を見つけては、俳優にした。

「芝居は嘘である」「演劇は詐術である」という自責の念は、すべての映画人・演劇人が持つべき良識である。
それに影響され、黒澤明監督は「影武者」で素人をキャスティングしたが、劇作そのものが「(シェイクスピアな)従来のもの」だったため、成功していない。

東映の沢井信一郎監督は、シュプレヒコールのような「棒読み」の演出を好んだので、素人俳優でも違和感はない。ブレッソン監督を思えば、松田聖子主演の「野菊の墓」は名作であり、世界的に評価されてよい。



小沢征爾氏の「浪速節」とは、感情のままに楽曲を表現していること。
過剰なロマン派な楽曲解釈が「浪花節」的であると、父は違和感を感じていた。と、私は推理した。

世の中には、古典派的な指揮と、ロマン派的な指揮があり、小沢氏の指揮は、「過剰にロマン派」ということか。

最近の私は、クラッシック音楽は、テンポルバート(感情・楽想のままに、自由にテンポを変える)であっても、タイム感(メトロノーム)が失われてはならない。と確信していて、その意味で、小沢氏の指揮を評価しない。

そもそも、NHK交響楽団の小沢氏ボイコット事件は、タイム感の有無に原因があると考える。
当時、タイム感という言葉はなかったから、「時間を守らない」「若造だから」が原因とされたが、芸術家たちが、そんなことで行動するはずはない。彼らのプライドを甘くみてはいけない。

そんな小沢氏が、音楽の本場で評価されていることに、私は違和感を持つ。



だが、先日、CATVでBBCの音楽番組を観たが、出演者のほとんどにグルーヴを感じないことに、驚いた。
グルーヴとはアメリカのものであり、イギリスにはグルーヴはないのか?

グルーヴが生まれるためには、タイム感が必要。

最近になった私は、グレン・グールドのピアノの特徴は、音だしのタイミングとは別に、もうひとつのメトロノーム(タイム感)を持つことだと理解した。

同様に、超一流の音楽家には、タイム感がある。



イギリスにも、日本と同じようなアイドルの時代なのかもしれない。
そして、小沢氏・グラミー賞。アメリカも…。
posted by スポンタ at 14:31| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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