2016年02月14日

ドラマの良し悪し。反町隆史は戦犯か?

「相棒」の新シリーズが始まって、そろそろ評価が定まる時期だと思う。
そんなことを思っていたら、こんな記事がYahooニュースに出ていた。

以下、引用




 それよりも気になるのは、シリーズを長い目で見たときに、警察内部の闘いというものが薄くなっているという点です。水谷さん演じる杉下右京が強くなりすぎてしまい、警察内部にライバルがいなくなった。昔の『相棒』のような緊張感がないのはそのせいでしょう。

 そこで反町さん演じる冠城亘というキャラクターが入ってきたわけですが、与えられている役割がやや中途半端。『相棒』の世界をもっと壊してもらっていいんじゃないかと思います。『水戸黄門』のようにわかりやすいドラマにするのか、先の読めないドラマにするのか。今は人間模様を描くドラマとしての方向性を模索している段階だと思います」

 ファンを満足させるには、1話完結ものとしての面白さだけでなく、長期的な見どころも用意しておく必要がありそうだ。それとは別に、成馬さんにはもう一つ、引っかかることがあるという。

「最近の『相棒』は“映像美”に凝りすぎているような気がします。照明の使い方などもまるで映画のよう。それが観ていてちょっと疲れるというか、『相棒』に求めているのはそこではないんですよね。テレビ朝日のドラマは、シナリオと役者さんの演技がしっかりしているのが昔からの伝統なんですが、最近の作品は映像が綺麗すぎて鑑賞の邪魔になっているような気がします。『科捜研の女』シリーズくらいの映像で十分なので、テレ朝の刑事ドラマは、気楽に観てみたいというのが、いち視聴者としての希望です」

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160211-00000008-pseven-ent&p=1




私が驚くのは、ドラマ評論家を自称する人が、明確な「評価基準」を持っていないことである。
問題は、新キャラのアンタゴニスト(対立関係)が希薄。法務省出身というキャラ設定だけで、対立関係が弱い。つまりは、杉下右京なる「特異な精神の主人公」と、冠城という新キャラクターの対立が希薄だということ。


そもそも、法務省と特命係の対立関係は何か? それが分からない。
一代目の相棒とのアンタゴニストは、「現場たたき上げの刑事」との対照であり、二代目は「特命係を調査に来た」。三代目は、「世代の違い…」。
謎の設定といえば、聞こえがいいが、「開けられなければ鍵ではない」ように、「謎に興味がいかない」なら、謎ではないだろう。



最近も、ロベール・ブレッソン監督のことをウェブで調べていたら、それを語る映像がYouTubeにあった。しかし、出演者は、ブレッソンの作品のテーマが貧困であると語り、その特徴を「シンプル」と指摘する。

しかし、ブレッソン監督の特徴は、彼の言葉に表れている。「演劇は嘘である。私は巧妙な嘘よりも、下手な真実を選ぶ」。
ブレッソンは、ルイス・ブニュイエルのような、カトリシズムに怨念を持った作家ではない。したがって、テーマは重要ではなく、「つくりもの的なストーリーを嫌った」が故に、テーマが貧困になり、演出がシンプルになったに過ぎない。




放送大学の青山昌文教授は、近代主観主義の巣窟である東大の教授であるにも関わらず、「近代主観主義批判」を行っている。
そして、大胆にも、スタニスラフスキーの著作の日本語訳は間違っていると指摘している。つまり、スタニスラフスキーは、俳優の「役への没入」を批判している。と指摘した。

何故、そのような誤訳が起きたのかといえば、私の想像では、スタニスラフスキーシステムは、ニューヨークのアクターズ・スチューディオで援用されたが、そこでは、「役になりきるため」に、資料を集め、多様な意味を表現することを目標とした。しかし、そのようなことは、「心理主義」であったり、俳優の「達成感」には効果があっても、「観客には関係のないこと」である。

つまり、俳優を主役にした「近代主観主義」が、スタニスラフスキーの論理を誤訳させた。これは、クーベルタン男爵が単純に「オリンピックに参加することに意義がある」と言ったのを、「優勝することよりも、参加することに意義がある」と曲解したことよりも、悪意がある。

アクターズ・スチューディオの俳優術が、マリリン・モンローの自殺の原因の一つになったのは事実だろう。そして、黒人俳優モーガンフリーマンは、記者から「黒人大統領の役ですが…」と聞かれ、「私は生まれてからずっと黒人だ」と答えたというが、俳優と役の関係はそんなものだ。



ドラマ批評家は、「映像美に懲りすぎている」と指摘しているが、問題は、そこではない。映像美が気になるのは、観客が「白けた芝居」で感性に余裕が出来てしまい、照明に神経が行くためである。連続ドラマだから、一回の撮影期間は、一週間以下のはず。とすれば、映像に凝るとしても、程度は知れている。



素人視聴者は「おもしろい・つまらない」で構わない。

しかし、評論家は、そうであってはならない。何故なら、制作者たちはそれらをもとに、作品に修正を加えていくのだから。

評論家は、主観主義に流されず、形式批評をすべきである。

posted by スポンタ at 07:42| 東京 ☁| Comment(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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