2016年01月26日

青山昌文先生の芸術論。

放送大学の芸術論の講義の究極の要約。その内容に、私も、深く納得する。



芸術は、芸術家の自己表現が目的ではない。
芸術が目指すものは、この世界の「本質(存在)」の表現である。


さらに、芸術は「芸術そのもの」が目的ではなく、何らかの目的である。
それは、「政治的」であったり、「宗教的」であったり、「社会的」であったり、する。



さらに、青山先生が強調するのは、18世紀以降の芸術論は、「近代主観主義」であって、通史的な妥当性を持たない。ということ。

授業の後半は、フランス啓蒙時代の批評家・ディドロについて多くの時間を割き、最後は、ロシアの演劇学者スタニスラフスキーとディドロの理論が同じであると説いた。

この説は、ご丁寧にも、日本の代表的な演出家・蜷川幸雄氏のインタビューで援用もしている。

*

それは、「俳優が、役になりきる」のは、演技の理想ではなく、「俳優は、演技を冷静にコントロールする」のがベストであって、「演技している時も、客観的に演技を見つめる別の視点を持っていること」が求められる。



青山先生は、ドイツ観念主義の欠陥を指摘する。つまり、「我思う、故に我在り」だが、「我が居なくなっても、存在はなくならない」ということ。

単純化すれば、哲学は「認識と存在」の学問。「存在の理由」を追及するのが目的である。
つまりHow to live in this world.ではなく、What is this world.を解説したい。



青山先生は、「スタニスラフスキーの演劇理論」が、「日本では誤訳されている」と、不満を露にする。
スタニスラフスキーは、「演技する自分を忘れて演技すること(没入)」は演技の理想ではなく、「演技においても、演技する自分を失わないこと」が最上の演技であるとした。

結局のところ、「近代主観主義」の日本の翻訳者が、「没入の演技」が最上であると、誤訳したのであろう。
しかし、そんなプロレタリア芸術の時代も終了した。

*

アクターズ・スチューディオは、「近代主観主義」に侵されていて、同様。「役になりきる」などというのは、「コギト(近代主観主義)」主義による、妄想・空想である。

マリリン・モンローは、そのために精神を病み、自殺したのではないか。
「役になりきる」といっても、歩いたり・飯を食ったりに、「個性になりきる」必要はない。



フランス現代思想でいえば、進化論以降のアカデミズムは、「西洋文明礼賛の物語」に過ぎず、一般的(通史的)な妥当性を持たない。

そこには、「進化論(近代主観主義)vs.文化相対主義」という対立構造がある。

*

それらの底には、陰謀論。イルミナティーの存在があるのだが、青山先生には、そこまでを論じる自由はないようだ。
posted by スポンタ at 21:58| 東京 ☀| Comment(0) | 芸術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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