2015年12月24日

「荒木飛呂彦の漫画術」に…。

前の記事では貶していたが、悪い本ではない。

「はじめに」の章でトリュフォー著「映画術(ヒッチコックインタビュー)」を誉めている。
私は映画学校の卒業生であり、トリュフォーのファンであり、ヒッチコックも尊敬していたので、新刊時に購入したが、今は手元にない。
学生時代から今でも手元にあるのは、ロベール・ブレッソンの「シネマトグラフ覚書」。つまり、アフォリズム的な充実を、同著は持っていなかったことになる。



荒木氏の漫画術は、悪くない。文学者たちが記した文章読本(文章の書き方を明らかにするようでいて、裏話しかしない)に比べれば、文句はない。

とはいえ、「漫画術」という前に、「創作」という原点があり、そこにおいて、「個人」と「作品」という地平が広がっている。そのあたりから論じるべきかとは思った。



アナロジー(類推)だが、「作品であること」を目標にした作業は、「キンタローのマエダアツコの物まね」のモノマネでしかない。アマチュアの所作だ。
この本を読んだ後、「漫画家予備軍」たちができるのは、そんな「キンタローの物まね」であり、「オリジナルな物まね」ではない。



漫画家が、どういうことで悩んでいるかを知ることはできるが、その悩みが標準化・一般化・系統化されているのではない。つまりは、散文的に「いろいろな留意点」が記述されているのであって、「それぞれの留意点の相対的な重要度」が分からない。

つまり、記述法としては、マクルーハンと同じ、アフォリズム形式(体系化ではなく、至言集)だが、マクルーハンのような「至言の宝箱」のような芸当はない…。

著者の経験における主観が主観のまま、ばらまかれている。しかし、そのアカラサマさが、荒木氏の誠実であり、この本の価値である。

…アオイホノオに通じる部分がある。


とはいえ、著者が指摘する基本四大構造。キャラクター・ストーリー・世界観。テーマ。そして、絵。
そんな凡庸なことで、読者は瞠目するのだろうか…。

*

まずは、シニフィアン&シニフィエの理論や、内容と形式の芸術理論を学ぶべきである。



ティム・バーナーズリーは、「理解する」とは、相手のレベルに合わせた「最適のアウトプットをすること」と、人工知能に関連して発言している。とすれば、セマンテックズーム的にこの本を帰納批評するとして、キーセンテンスはどうなるかにつき、明確にすべき。

しかし、そのような手はずが、なかなかとれないのが、トリュフォーの本と、この本の欠点かもしれぬ。

否、トリュフォーの本は、ヒッチコックのバイオグラフィーだから、それでいい。しかし、これは、技法の本の体裁である。




作家の意図(内容) → 題材の特性 → 技法の選択(様式) → 作品における表現

というような基本構図をもとに、再構成しなければ、素人には、あまりに散文的で、読後の満足感はあるかもしれないが、読者たちに「技」として定着することは難しいのではないか。

それが、トリュフォーの「映画術(ヒッチコックによる映画)」の内容を殆ど忘却してしまった私の思いである。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 芸術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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