2015年12月18日

黒澤明批判…。

娘に映画の古典を観ることを薦めている。

大衆娯楽としての映画は勿論、作家性の強い作品も同様におさえておかなければならない。

つまりは、洋画においては、
・ロベール・ブレッソン
・イングマール・ベルイマン
・フェデリコ・フェリーニ
・ブライアン・デ・パルマ
・デヴィッド・クローネンバーグ
…etc.

といったところか。



日本映画では、
・小津安二郎
・溝口健二
・黒澤明
・今村昌平(「復讐するは我にあり」以前の作品)
・沢井信一郎
あたり…。




黒澤映画で見ておくべきなのは、「七人の侍」と「生きる」である。

この作品を悪く言う人はいない。しかし、私には、違和感が残っている。

その理由は、

・ドラマが(ドラマティズムのために)感情の頂点にフォーカスしている。そのために、演技の深みがない。
・現場における黒澤監督の「抑圧」が強いためか、演技者同士のコール&レスポンスがあまり感じられない。
・監督とシナリオが「言語(音声言語・テキスト)で提示したもの」の領域を越えない「演技」。


換言すれば、

・フォルテシモばかりの楽曲
・選手の顔が見えてこない甲子園の野球


である。理想なのは、

・情動表現においても、ピアニシモからフォルテシモのようなダイナミズム(感情の幅の広さ)を感じされるべき。
・シナリオの設定を越える、「演技だけが表現できる領域」の提示。


であろう。



そのことは、同時期の監督・溝口健二とくらべれば、理解しやすい。

溝口監督は、俳優に「反射してください」と叱咤したのだという。その時、「意味が分からないので、具体的に教えてください」と俳優が文句をつけると、「私は監督であって、演技をするのは、(私ではない)あなたです」と、突き放したとか。



とはいえ、戦いのシーンの明解さは、黒澤監督の演出の精緻さ・明確さを印象づける。その理由は、戦いの場の「生死を分ける決定的な場」を描写するからである。

一方、致命的なのは、「男女の表現」である。何故なら、「情交」そのものは倫理規定から表現できないし、男女の恋愛において、「その寸前の時間」は、「するか・しないか」の判断の場でしかなく、「(相手を)好きになるか・好きにならないか」という、「最大のドラマの場」ではないから。

勿論、黒澤監督も、そのあたりは分かっているらしく、「好きになる瞬間」のドラマシーンを設定しているが、そのシーンの女優・男優は「生気に欠け」、「生きている人間の生々しさを表現しない」。

演技は「(人間の)生理のひとつ」であることを、黒澤監督は理解しないのだろう。

否、合戦を目前にした百姓達が、「固くなっている」のを感じた武士達が、百姓達をリラックスさせるために、「気勢を上げさせる」シーンがあるのだから、分かっていたけれども、できなかった…。



TBSで「下町ロケット」を見ているが、福沢演出には、黒澤演出と同じものを感じる。TBSのドラマ部のルーツが松竹大船であることを考えると、少し複雑な気分になる。


とはいえ、明治大学ラグビー部が展開ラグビーをするようになったのだから、そして、早稲田大学ラグビー部がドライビングモールをするようになったのだから、慶應出身の演出家が「黒澤風の劇画的な演技演出」をしても、いいのかもしれない。
posted by スポンタ at 07:58| 東京 ☀| Comment(0) | 芸術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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