2015年12月10日

メディア論と芸術論。

CATVのチューナーに、録画機能があるので、番組予約が簡単になったので、放送大学の講義を観ている。

私の興味は、芸術やテレビだから、芸術学、メディア学、心理学あたりをさまよっている。
(^▽^;)

先日、青山講師の美学の授業で、芸術の分類をやっており(ヘーゲルの芸術分類批判から始まった)、彼の芸術の分類を披露していたが、基本的なところを押えていないと感じる。
つまり、芸術を分類する場合、まず、一番最初にやらなければならないのは、「芸術と非芸術を切り分けること」である。
何故なら、巷間、気にされるのは、「学者が芸術をどう捉えるか」ではなく、「作品が芸術的であるか」だから。

映画が第七芸術であると、先の世紀で定義されることで、映画関係者が安堵したエピソードを青山氏が知らぬわけはないのに…。


第1芸術le premier art : 建築 l’architecture
第2芸術le deuxieme art : 彫刻 la sculpture
第3芸術 le troisieme art : 絵画 la peinture
第4芸術 le quatrieme art : 音楽 la musique
第5芸術 le cinquieme art : 詩 la poesie

第6芸術le sixieme artとしては、 演劇 le theare、写真 la photographie (不確定)

第7芸術 le septieme art は映画 le cinema

第8芸術le huitieme artに関しては依然様々な議論があり専門家による反対があるが、
概ねテレビla televisionとされる。

第9芸術le neuvieme artはマンガla bande dessineeとされている。

第10芸術le dixieme art はテレビゲームle jeu videoとされているが、まだ文化として広くは認められていないようで定着していない。
しかし、文化コミュニケーション省大臣が世界的テレビゲーム創作者であるミッシェル・アンセル、シゲル・ヤマモト、フレデリック・レナルの3人にシュバリエ勲章を授与したことはテレビゲームが芸術の分野へ入ったことを告げているのではないかと思われる。

第11芸術le onzieme artとして、
l’art numeriqueデジタル芸術、le multimediaマルチメディアが挙げられているが定着していない。

http://blogs.yahoo.co.jp/uranstarcatterys/58994879.html





日本には、終戦直後、俳句を第二芸術とする論があった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E8%8A%B8%E8%A1%93

これは、第二番目の芸術として、俳句の地位を確かめるのではなく、

俳句という形式は現代の人生を表しえないなどとして、俳句を「第二芸術」として他の芸術と区別するべきと論じたものであり、当時の俳壇に大きな論争を引き起こした(第二芸術論争)。


なのである。



上記を総合して、私の見解を述べると、以下になる。


存在を表現するのが「芸術」であり、意味を表現するのが「デザイン」である。


したがって、「芸術であるかどうか」は、フレーム(メディア)に依存しない。

*

「詩的であるかどうか」は、「意味の直接伝達性」の多少である。つまり、鑑賞者が「作者が提示した意味を読み取ること」を強制されるなら、「詩的ではない」。
それは、「伝えられる意味」が「存在」であっても、「芸術的ではない」。



ヘーゲル以来、芸術の分類が始まったのだろうが、メディア論が、メディアの総合・統合を行う現代において、「メディアを語ること」は「ジャンルを語ること」に等しく、価値は低い。

分かりやすく言うと、「カレーかハヤシライスかどうか」の議論に価値はない。有用なのは、「この料理が上手いかどうか」。(メディアではなくコンテンツ。)
つまりは、機能論(形式主義ではない)。

…なのだが、マクルーハン曰く、「メディアはメッセージである」。



マクルーハンの「メディアはメッセージ」について、以下のサイトがあった。

工場のオートメーションでコーンフレークが生産されようと、キャデラックが生産されようと、オートメーションという装置は、同じように人々の環境に対する関係を変容させる。同様に、テレビでどんな番組が放送されようと、電話でなにが話されようと、書物に何が書かれていようと、テレビはテレビとして、電話は電話として、書物は書物として、そのメディアとしての本性において社会に作用するのである。こうした主張は説得的である。しかし、それならばマクルーハンは、「メディアはメッセージとは異なる次元で受け手の身体に作用する」と言った方が理解されやすかったのではないだろうか。「メディアはメッセージ」という逆説的な定式化を行うことで、彼はメディアとメッセージの関係を曖昧にし、議論に不要な混乱を導入してしまったようにも思われる。
もちろん、マクルーハンの言う「メディア」とは、テレビや電話や書物といった装置のレベルだけを指すのではない。マクルーハン的メディア概念からするならば、それら装置に含まれる電気音や電気光や活字もまたメディアである。実際、彼は「メディアはメッセージ」という主張を説明する中で、電気光のメディアとしての重要性に言及している。電気光は通常「内容」をもたないために、コミュニケーション・メディアであることに気づかれない。電気掲示板のように何らかの商品名を照らし出して初めて、人々は電気光をメディアとして扱うのだ。だがその場合でも、注目されるのは電気光そのものではなく、照らし出されたメッセージの方である。ところが電気光は、電光掲示板がメディアであるのと同様、それ自体メディアなのである。このように考えるなら、メディアとは、いくつかのレベルを重層的に含んだ概念と言うことになろう。まず、われわれは絵の具や活字、伝記音、電気光と言った記号表現の質量をメディアと呼ぶことがある。また、テレビや電話、ラジオ、書物といった、質量としてのメディアを受容・際せさせる装置としてのメディアが存在する。さらに、そうした諸装置が社会的に編成されたシステムとしてのメディアのレベルを考えることも可能である。しかしながら、このいずれのレベルにおいてもメディアはメッセージそのものでは差しあたりはありえない。メッセージには、メッセージの形式が不可欠である、この形式は、記号の論理、とりわけ言語の論理に基づいている。そして、この記号的な形式性とメディアの物質性は、原基的な言語活動の場において交差することはあっても、さしあたりは異なる次元に属しているのである。 (吉見俊哉『メディア時代の文化社会学』新曜社、1994年、p.42-44)

http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/yamaguci/inet_lec/lec02/02note01.html


吉見氏は、マクルーハンがメタ論をしていることをいいことに、「メディアはメッセージ」というスローガンさえも、メタ論であると誤読している。

「メディアはメッセージ」とは、「メディアこそが、メッセージである:テレビが創設された目的は、コンテンツ(報道や娯楽)とは別にある」との意味であって、「メディアの機能」を表現しているのではない。

女優・メリル・ストリープは、「映画ではシーンがすでに多くを語っているので、俳優が演技で何かを足そうとすると過剰になる」とアクターズスタジオインタビューで語っている。同様に、「テレビにも、コンテンツとは別に、メッセージが存在する」。そのことをマクルーハンが指摘しているのだ。
「先生に職員室に呼ばれる」・「先輩に体育館の裏に呼ばれる」は、すでにメディアであって、「そこで何か(コンテンツ)が語られなくても」、意味(メッセージ)は成立しているのである。

そのような構造が、テレビが登場した頃のマクルーハンには見えていたのであり、昨今は「メディア・リテラシーによって、批判的にメディアが発信する情報を吟味せよ」と多くの人達が言い出した。昨今のウェブ情報とマスコミの情報を対照すれば、「マスコミはマスゴミ」であり、その理由は「陰の圧力の存在」ということになり、それを突き止めるのが、メディアリテラシーの目的であり、機能である。

posted by スポンタ at 07:23| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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