2015年11月06日

実存主義は、存在主義であった。

20代の頃、サルトルの嘔吐を読んだが、よく分からなかった。

先日、NHKでサルトルの哲学を紹介する番組をやっていたので観たが、サルトル曰く以下だという。

「実存は、本質に先立つ」。

サルトルの専門家が、伊集院光に説明しているのだが、それでも分かりにくい。

そして、実存主義とは、エグジスタンス。であり、本質は、エッセンスだと。



結局のところ、私が、サルトルを理解できなかったのは、日本の学者達が、自分の学問をカサアゲする or 自分の職場を守るために難解な語句の使用したことに起因する。

実存とは、「実際に存在すること」である。

本質とは、「本来の性質」である。

そう言っていただければ、「実存は、本質に先立つ」というのも、「実体は、属性に先立つ」ということであって、誰にでも理解できるはず。




サルトルが言っているのは、黒澤明の映画「7人のサムライ」の中のセリフ。「今、首が斬られようとしているのに、髭を気にしてどうする」である。

問題の根幹は、「存在」であって、「属性」は二番手の話題でしかない。

つまり、ギリシアの哲学者が、「いかに生きるべきか」・「何のために生きるべきか」・「この世界は何か…」などという命題に取り組んでいるが、そんなことよりも、「存在しているのは、何故か?」「何故、私たちは、この世界は存在しているのか?」という命題の方が重要であるということ。



さらにいうと、実存主義は、「何故、存在しているのか?」という問いを追求することによって、「存在のありか」が証明されるという立場。

そこにおいて、「存在論」→「認識論」→「存在論」。
ということなのだが、それは、無限スパイラルであって、不毛である。

その不毛に気がついたサルトルの後輩たちが、実存主義から離れて行き、記号論や構造論、脱構築へ進むことになる。
…つまりは、ロゴスで思考している限り、存在は証明できない。ということ。


その延長線上で、認知科学や、チョムスキーの生成文法などが現れた。

なんて…。ね。
posted by スポンタ at 07:49| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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