2015年10月04日

芸術論とモダニズム

放送大学の「芸術と芸術史」をかいつまんで観ている。

その理由は、娘が海外旅行をした時に、楽しいため。あとは、芸術の話題は、その人に「深み」を感じさせるから…。



第一回目の放送(講義)では、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 「聖愛と俗愛」が紹介された。

http://t-jikkosan.jugem.jp/?eid=43

青山講師は、女性の2ショットの絵画を紹介し、「着衣が卑俗。裸が神聖」と、説明する。その理由は、西欧美術の裸は、「何も隠していないこと」。つまりは、「本質」を表現する。という伝統があるから。

素人が、日常感覚から、「裸は、嫌らしい」から卑俗と判断してはならぬ。

*

私なら、ヌード・裸婦と、裸の違いを、エゴン・シーレの絵画などで確認する。

http://www.allposters.co.jp/-sp/Reclining-Female-Nude-with-Legs-Spread-1914-Posters_i2580427_.htm



途中から番組の存在に気がついたので、断片的だが、
・ロマネスク建築が、プラトン的。
・ゴシック建築が、アリストテレス的。
ということを知った。

青山先生の言葉では、今一つ理解できなかったので、ウェブで調べてみた。

プラトン的とは、イデアという次元をイメージすること。
アリストテレス的とは、現実しかイメージしないこと。

*

私は娘に、次のように解説した。

プラトン的: 天国・極楽浄土が、別次元にある。
イメージは、ドリフターズの「雲の上の雷様のコント」。



アリストテレス的: 天国・極楽浄土は、この次元にある。
イメージは、孫悟空。西方浄土。



続いてみていると、

芸術作品は、芸術家の「精神的な豊かさ」によって生まれるものではなく、「哲学的・政治的な要件」によって、生まれる。と。

*

ミケランジェロは、メジチ家の庇護を受けたが、共和制ヴェニスのために作品を作った。
ミケランジェロの筋肉の表現は、共和制ヴェニスを賛美するもの。メジチ家の発注を受けた他の作家のダビデ像とは、大いに異なる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87%E5%83%8F_(%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD)

*

ドイツのある北方ルネサンスの画家(クラナッハ)は、2つのルターの肖像画を描いた。

その理由は、前作が「厳しい表情」で、ルターが政治的な交渉をするときに困ったから。
果たして、「柔和な表情」のルターの肖像画が描かれた。

*

100年ほど前の美術研究家は、政治的な理由で、印象の異なる2枚の肖像画が描かれることはないと、一枚を贋作とした。

何故なら、絵画表現は「個性の表現」であり、作品のすばらしさは、「作家の精神的な豊かさを結実したもの」という「近代」の理論が崩れては困るから。

美術研究家は「近代(コギトの独立)」という思想に、洗脳されていた。




とはいえ、発注産業であっても、作家は、独自性を捨ててはいない。

システィナ礼拝堂に、ミケランジェロは、聖書の記述とは異なる絵を描いた。(アダムとイブを等価に描く。聖書では、アダムの一部からイブが生まれた…)


別の画家の話だが、

マリアの夫・ヨゼフは、「処女懐胎」の必然性を多湿るため、老人として描かれるという伝統があった。

だが、マリアの若さに比べて、ヨゼフは年寄り過ぎると、伝統に反旗を翻した画家もいた。



直感的な鑑賞を勧める美術関係者は少なくない。

しかし、絵画表現・芸術表現も、何かを象徴・隠喩することが目的であり、その意味では、記号的・言語的な表現のひとつである




シャガールを勧めるような美術教師を、私は嫌いである。色彩だけで、ミロを誉めるような人を軽薄だと思う。

彼らは、カウンターカルチャア。
現代美術という文脈・記号のなかで、意味・価値を定義しなければ無為である。

posted by スポンタ at 07:22| 東京 ☀| Comment(0) | 芸術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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