2015年08月22日

西洋美術館が、世界遺産になるか…。

東京都で始めての世界遺産になるかもしれないと言うことだが、その理由は、フランスの建築家・ルコルビジエの作品だから…。



インターネットを開発したティム・バーナーズリーによれば、「理解する」とは、「相手の理解力」に対応した「難解度・分量のテキスト」をアウトプットすること。

さらにいうと、アメリカの伝説的な経営者・アルフレッド・スローンは、(元研究者だった)新任の重役に、「君が研究したテーマについて、従業員に5分で分かるように説明して欲しい」と命令した。当該重役が「私が何十年も研究してきたことを、5分で分かるように説明することなどできない」と拒絶すると、スローンは新任重役を即刻解雇した。(ピーター・ドラッカーの記述?)

このエピソードから学ぶべきは、「理解する」とは、「他者の理解を促すようなアウトプットができること」であり、そのことにより、すべての「アカデミズムな営み」は社会的な有用性を獲得する。



さて、何故、西洋美術館が、世界遺産の候補たりえるか…。
その理由は、ルコルビジエの建築作品だから…。

ル・コルビジェ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8


WIKIPEDIAから、キーセンテンスを私なりに抽出すると、以下になる。

歴史上の功績は、鉄筋コンクリートを利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性を信条としたモダニズム建築の提唱者ということになる。ル・コルビュジエの思想は世界中に浸透したが、1920年代の近代主義建築の成立過程において建設技術の進歩にも支えられて、とくに造形上に果たした功績が大きい。彼の造形手法はモダニズムの一つの規範ともなり、世界に広がって1960年代に一つのピークを極めた(その反動から1980年代には装飾過多、伝統回帰的なポストモダン建築も主張された)。

西洋では組積造(石積み・レンガ積み)による建築が伝統的だったが、ル・コルビュジエはスラブ、柱、階段のみが建築の主要要素だとするドミノシステムを考案した。その後の代表作サヴォア邸は、ル・コルビュジエの主張する「新しい建築の5つの要点(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)」(近代建築の五原則)を体現している。クック邸が5つの要点を体現した最初の作品であり、サヴォア邸でより完成度の高い実例を示した。


しかし、閲覧諸氏は、これで理解できるのだろうか。

というか、仮に、ル・コルビジェの試験前日に、丸暗記しなければならない、として、このテキストは受験生にとって「優しい(易しいではなく)」か。

*

ルコルビジェの建築の特徴は、非ルコルビジェの作品との「対照」によって明確になるが、そのような解説を、「辞書」は「主たる技法」として採用していないのである。

たとえば、「強制されない自発的な行為」の副詞として、ボランタリーとスポンティニアスリーがあるが、ふたつの語感の違いは、ふたつの語を「対照」すれば分かりやすい。
しかし、そのようなコラムが辞書の説明の中にあればよいが、それぞれの語の単純な解説では、それが抜け落ちてしまう。

因みに、スポンティアスリーとは、衝動的。

*

ルコルビジェの本質は、「建築とは、住むための機械である」との言葉に表れている。

「住宅は住むための機械」

建築について語ろうとするとき、建築とはなにかという定義からはじめる必要がある。そしてそのためには建築を外部から見る必要がある。
ル・コルビュジエが『建築をめざして』でやろうとしたのはまさにそのことであり、本書のタイトル『建築をめざして』とは、いまいる地点が<建築>の外部であることを示している。
たとえばマルセル・デュシャンが美術の解釈を拡大したように、あるいはジョン・ケージが音楽の解釈を拡大したように、そのもの自体の解釈を拡大することは、建築においては困難である。なぜならコルビュジエの「住宅は住むための機械」という言葉が示すように建築にはその機能が備わっている必要があるからである。
 水に浮かぶ機能のない船は船ではなく、空を飛ぶ機能のない飛行機は飛行機ではないのと同様に、住むことができない住宅は住宅ではない。

http://drowbypen.com/wp01/cor1/


ル・コルビジェの価値は、マルセル・デュシャンやジョン・ケージと並べられた時に、深く理解できる。
つまり、ル・コルビジェは、ロマネスク、バロック、ロココといった装飾的な建築の系譜を否定して、建築のモダニズムの旗手となった。

ならば、マルセル・デュシャンの作品やジョン・ケージの音楽を鑑賞するように、メタな鑑賞を目指さなければならない。



私が小中学生の頃は、美術ブームであり、西洋美術館に、ミロのビーナスや、モナリザ、ルノワールがやってくると、マスコミの話題になり、上野公園に大行列ができた。

私は、そのような展覧会で西洋美術館を訪れると、毎回、ロダンの彫刻を眼にすることになる。

西洋美術館で有名なのは、言うまでもないが「考える人」である。しかし、何故、この作品に価値があるのか、当時の私には分からなかった。

その理由は、以下のサイトのような解説に接していたからだろう。

国立西洋美術館の前庭を飾るロダンの彫刻

http://www.bell.jp/pancho/photo_album/2011_09_09_rodin.htm


このような分量による「解説」は、門外漢に対して、一切の価値を持たない。何故なら、この記述を丸暗記でもしなければ、二次発信が不可能だから…。

*

そして、私は、西洋美術館の庭にあるロダンの作品群の中で、(感情を説明的に表現した)「カレーの市民」が素晴らしい作品であり、「考える人」「地獄の門」に関しては、ずっと「有名ではあるが…」という疑問符のままであった。



「神がいなくなった」時代(近代)において、「環境と人間の存在」を証明するのは「考えること(コギト)」だということ。
つまり、創造神が位置する場所に、考える人が存在する。それが「地獄の門」の価値であり、そのクローズアップが「考える人」。


サイエンスの時代、「存在の問題」を扱う人がいなくなった。そこで生まれたのが、観念論であり、実存主義である。それらの学問を端的に説明すると、「深く考えていくと、存在は証明できる」。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」とは、そのような意味である。

*

そのような「近代人・現代人」にとって、もっとも本質的なことを、「地獄の門」と「考える人」は扱っているということを、誰も指摘しない。
それでよいのだろうか…。



私は、そのような「存在」に対する不安が、若い人たち、真剣に考える人たちを悩ませ、結果として、カルト宗教やイデオロギー洗脳に迷い込ませたのであると、確信する。

そして、実存主義はダメ。つまりは、「思考をつきつめると、存在が証明出来る」などということは起こらないことを、1990年以降の私たちは知っているのだが、そうした結論に触れることは、なかなかできないのである。



そのようにして、モダニズムは「歴史化」していく。つまりは、西洋美術館は、「遺産(現役ではないという意味)」となる。
posted by スポンタ at 07:05| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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