2015年08月12日

又吉・火花・芥川賞・批判・ダメ(その2)

オリンピックのファンだからと言って、オリンピックに出るようなアスリートでなければならない。ということは、ないだろう。
だから、「本好き」・「小説好き」だからといって、「小説が書けなければならぬ」ということでは、……ない。

しかし、「創作」において、第一の鑑賞者は「自分」である。つまり、「創作」は、第一の鑑賞者である「自分」のグレードを表現する。

これは、紛れもない事実だろう。

又吉氏は、小説のグルマン(量を愛でる人)ではあったのかもしれぬが、グルメ(質を求める人)ではなかった。



「火花」の冒頭は、次のような文章である。

大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。


最近、テレビ番組で、女性俳人が、写真を見てつくったタレントの俳句を添削するというのがあるが、それにならって、深く作品に関わってみる。

*

まず、「大地」という少し大げさな表現。「律動」というあまり使わない単語。ここに、自分を「立派」に見せたい作者の心根が見え隠れする。
熱海という温泉地の花火会場に向かう雰囲気に、「大地」という言葉に相応しいのだろうか…。それとも、又吉氏は、パール・バックのファンだということを言いたかったのか…。
「律動」などという馴染みの少ない単語も、大げさだから、リズムとすべき。

さらにいうと、「笛」が出すのは「音」であり、「響いて」いるなら、それは「重なり」っていうのが当然であり、そもそも、「笛の音」は、「甲高い」ものである。
ここにおいて、あまりに語句の「意味の重複」が激しい。それが作家の個性・独自の文体であるならいいが、私はそのように感じない。

*

すこし行くと、

中央のスタンドマイクは、漫才専用のものではなく、横からの音はほとんど拾わないため、


とある。

小説においても、シナリオにおいても、「状態として表現」するのではなく、「動きとして表現」すべき。つまり、「漫才専用」というのも、「横からの音はほとんど拾わないため」というのも「状態・属性的な説明」であって、

・私は中央のスタンドマイクを使った。
・私の口がマイクから外れた。
・私の声をマイクは拾わなかった。

と表現すべきであって、

・中央にスタンドマイクがあった。(状態)
・口がマイクからはずれると、スピーカーから音は出ない。(条件と結果・理屈)

というのは、説明であって、描写ではない。

*

小説表現において、
まずは「現在形(できれば動き)」で表現すべきであり、「理屈」ではなく、「ドラマ・物語」として表現すべきである。

つまりは、小説は「論文ではない」のだから、「抽象的」な言葉は使うべきではない。

たとえば、

結果が芳しくなかったので、


とあるが、この「結果」という単語は、具体的に表現すべきであって、「抽象的」である。



小説においても、シナリオにおいても、「描写すべき」であって、「説明」してはならない。
そして、もし「説明」しているとしても、それが「別のもの」をイメージさせているなら、「説明」も許容される。



芥川賞授賞のコメントで、又吉氏は、自分の作品を嫌いになっても構わない。ただし、私の作品を契機に百冊ほど本を読んで欲しいと語っていた。私は、その言葉にインテリジェンスを感じ、感心したのだが、この「火花」を見る限り、彼にインテリジェンスは皆無である。
その理由は、「用語の選択」に一切の知性を感じないから。

僕が絶望するまで追い詰められなかったのは、


とあるが、「絶望」などという安直な単語を、小説家が使ってよいのだろうか…。

そもそも、小説とは、絶望という単語を使わないで、絶望を表現することを目指すのではないか。

同様に、「矮小」・「平凡」・「大いなるもの」など、又吉氏の単語感覚を疑わざるをえない「大げさ」で「抽象的」な単語が頻出する。

通行人は驚くほど僕たちに興味がなく、たまに興味を示す人もいるにはいたが


という一文の「抽象さ」に、私は驚くばかり。彼が「興味」の一言で「束ねたもの」を具体的に書くのが、「小説」という作業のはず…。



ありえない情景。

たとえば、姉のエピソードとしてある、
ヤマハの音楽教室で「ねこふんじゃった」をレッスンすることなどありえない。

そもそも、ヤマハの音楽教室は、「ねこふんじゃった」を弾けない・弾かない子をレッスンするのであって、「ねこふんじゃった」を弾ける子は、ピアノを習ったことのない子である。

さらにいえば、五線譜が読めない子に、紙のピアノで練習などありえない。

*

こんなのもある。

辺りが紫色に暮れ出すと雨粒が僕の方を濡らし


周囲が紫色に染まっているなら、夕暮れであり、太陽光線がある。しかし、雨粒。この場合、晴れているのか、雨が降っているのか。

*

池尻大橋の丸正から、二子玉川まで2時間ほど歩いたとあるが、池尻大橋から二子玉川までは、田園都市線で一本。そこを何故、歩くのか、私は理解に苦しむ。

因みに、私は、自宅のある二子玉川の隣地から代官山まで、自転車で走ったことがあるし、娘は、3.11の時に、ほとんど同じ距離を歩いて帰宅した。

3.11のような非常事態でなければ、あの距離を歩くことなど、あるまいに…。その説明はない。



結論をいえば、又吉氏が、いまだ「中二病」ということ。

彼は、自分を投影した主人公に、次のように語らせている。


僕は自分の不遇を時代のせいに出来るほど鈍感ではなかった。僕と彼等の間には歴然とした能力の差があった。


閲覧諸氏は、この一文から、又吉氏が中二病であることを察知できるだろうか。

「鈍感ではない」。つまり、「自分の感性を誇ること(万能感)」こそが、中二病の実体である。



文芸春秋に掲載された芥川賞審査委員たちの文章は、「強権者」たちの「印象批評」である。
そこで、私は、「形式批評」を試みたが、それは「表象的作業」と自負する。


*

無名な私の駄文・駄説に過ぎないから、「本気で反論」する人がいれば、嬉しい。



どちらにしても、「若い人たち」は、又吉氏をマネしないように。

けっして悪い奴ではないだろうに、このような状況に巻き込まれた又吉氏。彼のまわりには、商売人しかいなかったのだろう。
そんな彼の不幸を思いながら、水嶋ヒロ氏のような末路を繰り返さないことを願うとともに、

まずは、小説家としてではなく、小説鑑賞者としての実力を上げることが、彼のタレント生命に大きく関わってくると、私は判断する。

私が指摘したようなことを、又吉氏、自ら、反省し、若い人たちに諭さなければ、日本の小説というジャンルはさらに衰退する。

*

紙メディアが衰退したのは、ウェブや電子出版のせいではない。
メディアを牛耳る人たちが、「自分たちに都合の良いこと」をやり過ぎた結果。

今回の又吉フィーバーは、日本の音楽シーンが、アイドルに覆い尽くされてしまったのと、ほとんど同じ現象である。

posted by スポンタ at 13:57| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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