2015年08月11日

又吉・火花・芥川賞・批判・ダメ(その1)

私は、小説マニアではないから、私がここに書くことを、鵜呑みにする必要はない。
勿論、芥川賞の候補者になったこともない。若い頃、文芸雑誌の新人賞に小説を応募したことがあるだけ。
シナリオも書くには書いたが、代表作があるはずもなく、ゴーストな形のみ。

とはいえ、そんな私だから、「小説やシナリオが最低限持つべき要件」について、少なからず知っている。



シナリオ学校では、「説明セリフはダメ」と教えられるが、橋田寿賀子氏の「渡る世間シリーズ」のセリフは、「説明ゼリフ」ばかり。

説明セリフとは、ドラマではなく、登場人物が、状況や感情をセリフで説明すること。たとえば、富士山の映像が流れて、登場人物が、「富士山ってキレイ」というセリフを吐いたら、それは、説明セリフである。説明セリフに似たものに「生セリフ」というのがあり、「私はあなたが好きです」というのは、生セリフ。つまりは、「思っていることを、言葉で、そのまま説明している」から。

プロの現場では、橋田寿賀子氏の「作家性」ということで、「渡る世間シリーズ」の説明セリフが許容されているが、そんなシナリオを新人が書いたら、懸賞小説で入賞できない。



そうした業界の文脈でいえば、お笑い芸人・又吉氏の小説は、タレントという「作家性」によって、初めて成立する「文体」であって、それを、小説家に憧れたり・小説家を目指す、または、小説を書きたい「若い人たち」が理解できないなら、今後、日本の小説というジャンルに、「未来」も「夢」もない。

というか、まず、

小説は「どういう評価基準」で吟味されるか。ということにつき、若い人たちが知らなければならない。



文芸春秋の特集号には、芥川賞審査委員をつとめる小説家の感想が載っている。しかし、それらは、「(出版社や同業者と有効な関係を保持しなければならない)利害関係者」の「印象批評」でしかない。

本来あるべきは、「評価基準によって、評価する」という形式批評。しかし、審査委員の小説家たちは一様にそれを避けている。

*

私が、形式批評という言葉を知ったのは、高校の吹奏楽部の顧問・松本成二先生が書いた「現代文の科学的研究」という本である。その部活で3年先輩の奥泉氏にしても、又吉作品を批判はしているが、印象的な表現。

叙情的な描写はあるものの、「小説」であろうとするあまり、笑芸を目指す若者達の心情の核への掘り下げがなく、何か肝心のところが描かれていない印象を持った。


私も、奥泉氏と同様な感想を持つ。そして、彼のように暗示するのではなく、明確に指摘したい。

「笑芸を目指す若者達の心情の核」とは、「ネタの品質」と「観客が笑うこと」が必ずしも比例しないこと。「有名」になってしまえば、「人気」があれば、「笑い」は生まれる。その桎梏・ジレンマの中で、「どうやって頭角を現すか…」である。

関西系芸人が「ギャグ」といっているのは、ギャグ(おもしろいこと)でもなんでもなく、「パターン芸(くりかえしで、おかしさを発生させる)」。これは、ネタを考えるよりも「安直」であり、継続的に露出できる立場にあるなら、新人もベテランも、そのような安直な笑いを追求する。

そうした、お笑い界の現状に対する憤りが、一人前を目指す若い人たちにあっていい…。



次に、形式批評したい。
posted by スポンタ at 07:41| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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